泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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アートワールド


―現代アートが分かりません。
 それは現代アートにおいて、感性的に訴えかけるというファクターが決定的なものではなくなったからです。美術であれば見ればわかる、音楽なら聞けば分かるという言い方が昔は通用しましたが今では通用しません。例えば現代美術家マルセル・デュシャン(1887~1968)の「泉」はただの便器なのになぜ芸術なのか、作品を見ただけでは分からないでしょう。しかしそれが分かれば好き嫌い以前に納得する、これはこういうものなのだと納得できます。これは広義の美術史、理論史の見取り図のようなものが頭にあって、それに照らして納得することです。
 芸術家が実践するためには理論が必要です。例えば伝統的な富士山の絵を描いている人も絵画とはこういうものだという理論があり富士山を描いていて、同じく便器を出品する芸術家も理論を持っているわけです。その理論は理論書、論文の形で書かれていないかもしれないが、いずれも或る理論に則って作られています。その理論を全員が共有している場合には誰でも「見ればわかる」んですよ。しかしデュシャンのような人はその理論自体を変革しようとするわけだから、理論がどういう状態にあってどう変化しうるのか、変わろうとしているのかを認識していないと、なぜそのような作品が提示されたか理解できません。現代アートは理論を知らないと全く理解できないと思います。

―現代アートの展覧会を見ると、「何でもアートになる」という印象を受けます。
 何でもアートだというのは、その通りでもあり、その通りでもありません。既製品でもレディ・メイドとしてアートになるし、非常に無価値な物でも手で作りアートと称すれば桁違いの価値を持ちます。例えばアンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス」は商業用コンテナの外観を木製合板にそっくり写したもので、元の箱との外見上の違いを全く持ちません。とはいえこのペンを「これはアートです」と言って出品しても、そのように主張することは自由だけれども誰も見向きもしないでしょう。それがなぜアートなのかが問題です。

―誰かに認められることが重要なのですか。
 それは絶対重要です。「私的言語」という、たった1人が用いる自分しか理解できない、他の人とはコミュニケーションが取れない言語があります。芸術について私的芸術というのが成立するかと言えば、「やりたければどうぞ」ということになり、その個人の問題を超えることはありません。便器にせよウォーホルの「ブリロ・ボックス」にせよ、それは既にある種の多数決原理が働く共同体的な現象なのです。これらの場合には積極的に認める人がおり、理論的な確信を伴っています。例えば「ブリロ・ボックス」を作ることは、今まであった芸術とは違う考え方、つまり違う理論に則った芸術を作るということになります。鑑賞者側もやはり理論を立ててこれは芸術なのかどうかを論じないと評論になりません。理論なく描かれたものというのは文字通りの意味において認められないし、重要な影響力を持たないでしょう。

―しかし、たとえば動物が理論なく描いた絵も絵として認められているような気がします。
 評論とか判断というのは、誰がそう言っているのかが問題なわけです。例えば野球界の権威が動物の絵に対し発言しても素人が言うのと同じです。それぞれの領域において、有意義なことを語ると社会に認識された人の発言が重きを為します。単純な多数決や1人1票というわけではありません。
 哲学者アーサー・ダントーは、何が芸術であるかはアートワールドが決めると言いました。アートワールドというのは芸術の世界が運営される基礎、そうした暗黙の理論に基づいて運営されている世界です。そこの住人達とは芸術に関わるありとあらゆる人々で、その外縁は非常にぼやけていますが美術館の学芸員、美術評論家、芸術家、画商といった人達を含むのは間違いないでしょう。彼らは自分たちが則り了解している「芸術とはなにか」という概念を持っており、何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう。ダントーは同時に、アートワールドは歴史的に変化するということを非常に重視しています。例えば「ブリロ・ボックス」は100年前に作られなかっただろうし、作られても受け入れられなかったに違いありません。「アートはアートワールドが決める」という定義は全くのトートロジーです。けれども形式論理学のテーゼを検証しているわけではないので、そうとしか言えないと彼は考えたのでしょう。
佐々木健一 「芸術は終わったのか?」




 理論もなく美術史との関連もない作品やアクションは「芸術」とは言いません。それは「私的言語」にすぎません。ポップカルチャーとかサブカルチャーとかと違って「芸術」ってのは敷居が高い公式の文化なんですよ。何でもかんでもが芸術になるわけじゃないんです、、、「芸術」というゾンビはいまでも高級文化を気取っているのである。偉そうなこと言ってるけど「芸術」なんてとっくの昔に死んでいて、アートワールドとやらが「私的言語」だなんて蔑んでいる領域から「生きたもの」を盗んできてスカスカの骸骨に肉付けして生きた文化のような顔をしてるだけなのに。「何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう」だって? よく言うよ、盗人猛々しいにもほどがあるでしょ。(つづく
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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 職業 アニメーション背景制作
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