泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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ハーバーマスのアヴァンギャルド論「近代(モデルネ) 未完のプロジェクト」という短い文章を

、、、読んでみた。結論から言えば、ハーバーマスもアドルノ同様にアヴァンギャルドを曲解し、アナーキーな「生きられる文化」を権力の文化装置(芸術)へと回収する体制迎合的な言説を生産してしまっている。アドルノはモデルネ(=モダニズム)の始まりを19世紀中盤、ボードレールやモネの時代とするが、ハーバーマスにとってのモデルネはカントの時代に遡る、芸術の領域のみならず学問、道徳の領域をも含む社会改革(啓蒙)のプロジェクトである。ハーバーマスはアヴァンギャルドをこの壮大な物語の中に位置づけ、ダニエル・ベルなどの保守派の言いがかりからアヴァンギャルドを擁護する一方、その(特にシュルレアリスムの)戦略の誤りを手厳しく指摘している。が、このモデルネの物語はアヴァンギャルド(生きられる文化)にとっては迷惑なおとぎ話である。アヴァンギャルドは近代(モデルネ)のプロジェクトなどではないのだ。
 何が問題かというと、結局「芸術」というヨーロッパの高級文化(権力に奉仕する文化)の流れのみがモデルネの芸術に接続され、アヴァンギャルドは「芸術」の自己展開によって生じた運動と解釈されて、カーニヴァルなどの民衆文化やヨーロッパ外のプリミティブな文化は考察の蚊帳の外に置かれていることなのだ。私が常々言ってきたのは、アヴァンギャルドと近代以前の民衆文化や未開文化と単純に同一視はできないが、ある性質を共有しているということ。すなわち「芸術」が、芸術家という専門化した「演者」による卓越の文化、彼らが権力に奉仕し承認されることによって支配的秩序にポジションを得るタイプの文化であるのに対して、カーニヴァルなどの民衆文化は承認など問題にしない破壊と陶酔の文化、日常的な秩序や権力関係の反転の様相を呈するタイプの文化であって、アヴァンギャルドも「芸術」として解釈するのではなく、後者の破壊と陶酔の文化(生きられる文化)として理解すべきだということだ。であるのにアドルノやハーバーマスにとってアヴァンギャルドはあくまで「芸術」という権力に奉仕する卓越の文化だとみなしてしまう。だからこそアヴァンギャルドに厳しい自己批判の努力を求めたり、「啓蒙」という観客と非対称な「演者」であることを要求し、さらには彼らが啓蒙のプロジェクトに成功していないことに苛立ったりするのである。
 中世的な権力が衰退しブルジョワジーの時代になると、それまでのキリスト教的な統一的世界観が徐々に崩れて、王権や宗教的権力に奉仕していた高級文化「芸術」はじわじわとアイデンティティクライシスに陥っていった。何を描きなにを創るべきなのか長い模索の時代が訪れたのだ。カントの『判断力批判』のように伝統から切断した地点で抽象的に「美とは何か」が問題にされるようになったわけはここにある。これを巷では近代における「芸術の自律」と言っている。ハーバーマスやアドルノ、ペーター・ビュルガーといったドイツのフランクフルト学派系の知識人によるとこの「芸術の自律」の延長線上にモデルネの芸術(モダニズム/アヴァンギャルド)が19世紀中盤に生まれるのである。ただここには問題があって、この「自律性」を先鋭に推し進めた結果、モデルネの芸術は専門化、秘教化した「芸術のための芸術」になって大衆の理解から大きく遊離し、モデルネに含まれていた啓蒙のプロジェクトが破綻してしまった。そして20世紀に入るとこの芸術と大衆の生活との乖離の溝を埋めるためにダダ・シュルレアリスムなどの過激な生活実践が展開されることになる、、、と一見筋の通ったモデルネ論をハーバーマスは展開し、このおとぎ話に則って3つに分化した理性の1つの領域だけをむりやり生活と止揚させるプロジェクトは破綻を逃れないというハーバーマス独特のシュルレアリスムの戦略批判につなげてゆくのだが、そもそも19世紀後半に興隆してきたアヴァンギャルドを「自律的芸術」「唯美主義芸術」「芸術のための芸術」「芸術の自己批判」などと見做すモデルネ(モダニズム)の解釈は妥当なのかをまずは疑わなければならないと、私は考える。この「自律的芸術」の行きつくところは「美的な伝統の否定」だというのだが、芸術家にとって「伝統の否定」という課題は実際のところ重要ななものなのだろうか。というのもここがモデルネというおとぎ話の肝だからだ。
 モデルネの定式「伝統の否定=新しさ」とは、古い権威との闘いである。なぜ芸術家が「新しさ」を追求するのかといえば、古いものは重く息苦しく退屈だからだろう。古臭いもの老いたものに対するこうした反発は、現代人の私たちにはよく理解できるところだ。だが芸術家の活動は「美的伝統の否定=新しさ」という芸術の枠内での価値や問題意識に対する応答なのだろうか。芸術家だって芸術の世界だけに生きているわけではなくて、それ以前に実存する人間であり生活者であるはずだ。なのにアドルノやハーバーマスのいうモデルネの視点は、あまりに社会的な分業によって作られた(専門化した)役割である「芸術」という領域の内的論理だけに釘付けになっていないだろうか。彼らはモデルネ芸術の専門化、秘教化を指摘するのだが、アヴァンギャルドを含むあらゆる文化的事象を専門化した「芸術」の領域に引きつけて解釈し評価しているのはむしろ彼ら自身ではないか、と思ってしまうのだが。
 何度も繰り返すが、資本制システムは文化の殺戮者である。吝嗇な資本主義のメンタリティは文化的事象(祝祭性、破壊や陶酔などディオニュソス的なもの)を排除することで立ち上がるものなので、私たちにとっての文化というものはシステムへの反抗としてしかありえない。「資本主義の文化」と言う人がいれば、それは「黒い白馬」と言っているようなものである。その非人間的なシステムに芸術家のみならず全ての人が否応なく巻き込まれその中で生きている。そうした疎外に対してなにかしらの違和感や不安や憤りを感じる人は少なくないだろう。それは貧困や不平等の問題に対してかもしれないし差別や戦争の問題に対してかもしれない。しかし芸術家であればそれに加えて、資本主義のもとで痩せ衰えててゆく文化の危機に敏感であり、絶望を抱くのである。彼らの周りには古臭く退屈なアカデミックな芸術と売れることだけを目的としたキッチュだけが溢れている。計算と利潤の追求が全てである資本制社会に、かつてのような途方もない浪費ともいえる絢爛たる文化が輝く場所はあるのだろうか。カイヨワが生の絶頂と評した祝祭は資本制社会の中で実現することはないのだろうか。世界を彩る胸のすくような面白い創造活動はいかにして可能なのだろうか。おそらく19世紀の中頃には(はっきりと意識されてはいなかったにせよ)こんな危機感と欲求が一部の芸術家の間に広まっていたのではないだろうか。そうした一部の芸術家=アヴァンギャルドが求めたのは資本主義が退けてしまった祭りの太陽である。古臭いアカデミックな芸術の制度(権力の文化装置)を乗っ取って祭りの場に転用してしまおうという野心こそアヴァンギャルドの本質であって、「美的伝統の否定=新しさ」は彼らの実践の結果に過ぎない(さらにアドルノは自覚していたようだが、「新しさ」は消費を煽る商品の定式でもある。何の事はない、芸術の自律の行き着いたところは、王様や神様を賛美するものから取って代わった、資本という新しい神様を賛美する定式だったのだ。)。この実践は権力に奉仕する「芸術」の振舞いとは異質なかつての民衆文化(カーニヴァル)に近い、承認や卓越など求めない、現在のこの瞬間を祭りの歓喜で満たす水平的な交流の文化「生きられる文化」である。つまりアヴァンギャルドは「芸術」ではないということだ。
 モデルネ(モダニズム)のおとぎ話に慣れた耳には「アヴァンギャルドは「芸術」ではない」というフレーズは異様なものに聞こえるかもしれないが、「美的伝統の否定」も「専門化、秘教化」も「秘教化した芸術と生活の乖離の止揚」も、アヴァンギャルドを「芸術」として解釈するために捏造された物語なのである。このおとぎ話には、ダダ・シュルレアリスムの破綻を受けて「アヴァンギャルドの失敗(ペーター・ビュルガー)」とか「シュルレアリスムの戦略の誤り(ハーバーマス)」など、啓蒙のプロジェクトの失敗という結末がつけられているのだが、彼らは啓蒙主義的な(大衆の観客化を前提とする非対称、一方向的な)コミュニケーションとは無縁な関係性である「生きられる文化」に無理やり「芸術」の属性を押し付けたうえでダメ出しをするという、善良な人に因縁をつけるやくざ者のようなことをしているのである。
 シュルレアリスムが破綻したのはその通りであろう。しかしその理由はむしろブルトンたちシュルレアリストが自分たちの活動が「生きられる文化」であることを自覚できずに「芸術」という権力に奉仕する文化装置に取り込まれ、資本制システムとその疎外に抗する契機が徐々に薄まってしまったことにある。つまりシュルレアリストもまたハーバーマスたちと全く同じ過ちを犯していた、、、というかほとんどのアヴァンギャルドは自分たちの活動を「芸術」以外の何物でもないと考えていたことだろう。それほどまでに私たちの意識には芸術イデオロギーが染み込み、「芸術」以外の文化のあり方が見えなくなっているのだ。
 非同一性とかミメーシスについて語っていたアドルノが垣間見ていたのは、この「芸術」外の文化だったのだろうが、結局それを芸術の枠の中で考え抜こうとしたせいで、非常に息苦しく救いのない論調が彼のスタイルになってしまった。おそらく優等生的なフランクフルト学派の人たちにとって文化とは高級かつ純粋ででストイックな探求なのであり、祭りの陶酔のような破廉恥でインモラルなものが文化の名前で呼ばれることなど許されないと感じていたのではないだろうか。グリーンバーグもそうだがアドルノやハーバーマスのシュルレアリスムに対するケチの付け方には、理屈以前にそうした感性の問題があるように思えてならないのだ。

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