泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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熊倉敬聡さんの論考の面白さは、脱芸術が脱資本主義とリンクしている点である。

熊倉氏は芸術と資本主義は「限界主義」を共有していると言う。

実は、この<限界主義>とは、畢竟、資本主義のロジックの思考への刷り込みに他ならないのではないだろうか。 ドゥルーズとガタリは、資本主義のロジックの特徴を「内的限界」の微分的増殖──つまり簡単な言葉で言えば、参加者がそれぞれ他人より1円でも多く獲得したい、競争の相対的「限界」に行きたいと思う結果、その「限界」が相乗的に増殖していくという動態──においているが、このロジックは、資本主義の歴史的拡大とともに、単に純粋な資本のロジックとしてだけではなく、資本主義が浸食したあらゆる領域に──資本主義のさらなる繁栄の環境を生み出すために──自らを刻み込んでいった。政治はもちろんのこと、文化、教育、日常生活の微細な襞にまで、この資本主義の限界主義的ロジックが浸透したのであった。それは、芸術を語る最良のディスクールにまで──おそらく語り手の知らぬ間に──浸透し、芸術の限界主義的ディスクールを生んだのであった。


 「限界主義」とは耳慣れぬ言葉だが、誰よりも遠く限界へと突き進もうと頑張る心性とでも言うべきだろうか。大事なことはこの心性は、比較し計量するところの価値の物差しを前提にしていることだ。つまり、他者との比較や競争を可能にするグローバルな権力が紡ぎだす階梯の下でのみ意味を持つのが「限界主義」なのであって、ここでは「卓越化(ディスタンクシオン)」という垂直性が問題になっているのだ。(後に論ずるが、熊倉氏はこの「限界主義」が資本主義によって芸術の中に刷り込まれたと考えているが、芸術は近代以前より限界主義的な、卓越(上下の格)を問題にする垂直的な文化であって、権力による、権力のために組織された特殊な文化(公式文化)である。)
 熊倉氏はこの「限界主義」が疎外と深く絡み合っていることや、芸術のスペクタクルとしての性格についても自覚的で(──資本主義のさらなる繁栄の環境を生み出すために──)、疎外から自律するためには「限界主義」を脱しなければならないと考えているわけである。
 「限界主義」に対するものとして熊倉氏が提唱するのが「寛容主義」である。このへんは熊倉氏の文章に直接当たってもらいたいが、例えばワークショップなどの試みの中に「寛容主義」の性格を持った「脱」芸術(=脱資本主義)の実践が現れていて、その「限界主義」を反転させたような性格について述べている。

芸術と異なり、脱芸術的実践は、他者に美的体験の限界を強いはしない。芸術から見れば、芸術という「限界」から見れば、「中途半端」、「素人」、「下手」等々としか見えぬ<半>美的体験をも大事にする。しかも、美的生産の専門家=芸術家から、その非専門家=大衆への一方的な強要ではなく、脱芸術家は、自らが関わる人々に、彼らが自分たちの半美的体験を半ば自ずから生み出しうるような「環境」を提供する。そして、その環境において、彼らの半芸術の立ち上げとともに、その悦びを脱芸術家は共にする。その共なる悦びを生きながら、彼は知らぬ間に自らの脱芸術的営みにも新たな変化──たとえ微細でも──の生じていたことを見いだす。


 こうした脱芸術のプロジェクトの実例として熊倉氏は野村誠のワークショップ川俣正のアートレスのプロジェクトをあげ、その「半」芸術的・寛容主義的な性格を指摘する。それは個人主義的な制作から脱し、集団的で完成を目指すことのない創造活動へと移行し、頑張らない、ゆるい、愉しいアクションとして描かれている。
 が、これらの実例が私には「芸術」にしか見えないのである。「限界主義」を反転させた「中途半端」、「素人」、「下手」な性格を持った芸術は現代芸術の中に幾らでも見つかる。頑張らないゆるさ=寛容さを「限界主義」は偽装することができるのだ。
 熊倉氏は「限界主義」を反転させた「頑張らないゆるさ=寛容さ」を脱芸術のメルクマールにしてしまったようだが、むしろ芸術の根源にある「卓越化=演者化」すなわち垂直性という文化の性格を脱しなければ脱芸術にはならない。
 芸術は権力によって組織された高級文化(公式文化)であるが、芸術だけが「文化」ではない。近代以前に歴史を遡って考えてみると、王権や宗教的権力の周辺に広大な民衆の文化(非公式文化)が存在した。民衆の習俗や季節ごとに巡り来る祝祭は、ダイレクトに民衆によって生きられる、芸術の垂直性とは異なる形態の破壊と陶酔の、いわゆるディオニュソス的な文化である。カーニヴァルなどの祝祭においては日常の秩序や、権力によって社会に貫かれているヒエラルキーは破壊され、反転さえされる。肝心なことはこのディオニュソス的な文化は卓越や権力による承認とは無縁だということ、また他者や自然との融合が目指される水平性の文化だということだ(そのような融合の瞬間を認識することができるかどうかはともかく)
 おそらく脱芸術とともに見いだされる文化のあり方は、(かつての民衆文化と単純に同一視はできないが)このようなディオニュソス的な生きられる文化なのだが、熊倉氏はそのような水平的な文化をイメージ出来ていない。芸術以外の文化が見えていないのだ。結局、野村誠のワークショップも川俣正のアートレスも「卓越=演者化」を逃れておらず、芸術を脱しているとはいえないのだ。二人とも作品を作るのではなく、半美的体験を半ば自ずから生み出しうるような「環境」を提供するだけだというが、そのような「環境」が生きられれる日常と二項対立させられる瞬間に「卓越=演者化」が始まり、日常性は非創造的な受動性の領域に格下げされ、垂直的なヒエラルキー(疎外)が生まれる。またこのような場(環境)を提供する行いがアートワールドというアノニムな権威集団に認められているからこそ芸術の世界で話題にもなっているのだろうし、野村誠が共に作曲した老人たちも、川俣正のプロジェクトに参加した薬物依存者たちも、疎外を乗り越え自律した悦びを得たというより、プチ演者として束の間卓越を感じたことに新鮮な悦びを味わったと考えるほうが妥当ではないだろうか。それが脱芸術的=脱資本主義的な営みと言えるかどうか甚だ怪しいのである。
 生きられる文化の実例を見たいというのならむしろ芸術の領域を離れたところに探したほうがいい。ブランショは5月革命の中に芸術と政治の融合を見たというのだが、実際には「生きられる文化」の今日的な形を見た。同様にアウトノミアやサパティスタやアルゼンチンの路上占拠も「生きられる文化」の実例と見るべきだし、理論的に脱芸術と「生きられる文化」について考え抜いていたのはシチュアシオニストだと思うのだが。


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