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アヴァンギャルドとモダニズムという言葉が同じものを意味するのか否か
、、、これは論者によって様々である。19世紀後半から現れてきたオルテガ言うところの「非人間的芸術=わからない芸術」をひとまとめに同じ意味で「アヴァンギャルド芸術(前衛芸術)」または「モダニズム芸術」と呼ぶ人もいるし、一方、「芸術のための芸術」「自律的芸術」を「モダニズム」と呼び、その秘教的な閉鎖性に対してダダ・シュルレアリスムの反芸術的な生活実践を「アヴァンギャルド」と分けて論じる人もいる。
私はといえば、両者は基本的には同じものだと考えている。オルテガ言うところの「非人間的芸術=わからない芸術」はすべてアヴァンギャルドと言っていいと思う。ただし、アヴァンギャルドとはそもそも公式文化=スペクタクルであるところの「芸術」ではなく、「芸術」の世界に侵入し、アートワールドを乗っ取った、芸術外の非公式文化=「生きられる文化」のことである。また一方の「モダニズム」はというと、ブルジョワ権力=アートワールドによってでっち上げられたものであり、(侵入者である)アヴァンギャルド運動を自らに引きつけて解釈した「物語」である。この「モダニズム物語」の骨子は、「(美的)伝統の(自己)批判」という筋書きからなり、古典古代からルネサンスを経て現代まで連なる芸術の歴史の延長線上に展開するイノベーション(変革)こそが、アヴァンギャルド芸術だったというものだ。有名なニューヨーク近代美術館初代館長のアルフレッド・バーによるモダンアートの系譜図に表現された、芸術(美術)の自己批判、自己検証による線的進化の流れによってこの「物語」をイメージすることができるだろう。

アルフレッド・バーによるモダンアートの系譜図
困ったことは、このもっともらしい「物語」をほとんどの芸術家や芸術批評などが「実在」するものだと勘違いして、この「物語」を前提に制作したり、芸術論を展開したりしてしまっていることだ。アヴァンギャルドに胸を打たれた人が自らもアヴァンギャルドたろうとしても、「モダニズム物語」に惑わされ、この「物語」にエントリーすること、この「物語」に新しい1ページを付け加えることが自分の進む道だと勘違いしてしまう。その結果、若い新世代のアヴァンギャルドは、自分の思惑に反して権力のスペクタクルをより豊かにするために働かされることになってしまうのだ。「生きられる文化」は、カーニバルのように瞬間のうちに燃焼する生のことであって、歴史的に展開してゆくものではない。上のような図があらわれたらまず疑いにかかったほうがいいだろう。意識の中に侵入してくる寄生虫のようなモダニズムの「物語」を駆逐しなければならない。
私はといえば、両者は基本的には同じものだと考えている。オルテガ言うところの「非人間的芸術=わからない芸術」はすべてアヴァンギャルドと言っていいと思う。ただし、アヴァンギャルドとはそもそも公式文化=スペクタクルであるところの「芸術」ではなく、「芸術」の世界に侵入し、アートワールドを乗っ取った、芸術外の非公式文化=「生きられる文化」のことである。また一方の「モダニズム」はというと、ブルジョワ権力=アートワールドによってでっち上げられたものであり、(侵入者である)アヴァンギャルド運動を自らに引きつけて解釈した「物語」である。この「モダニズム物語」の骨子は、「(美的)伝統の(自己)批判」という筋書きからなり、古典古代からルネサンスを経て現代まで連なる芸術の歴史の延長線上に展開するイノベーション(変革)こそが、アヴァンギャルド芸術だったというものだ。有名なニューヨーク近代美術館初代館長のアルフレッド・バーによるモダンアートの系譜図に表現された、芸術(美術)の自己批判、自己検証による線的進化の流れによってこの「物語」をイメージすることができるだろう。

困ったことは、このもっともらしい「物語」をほとんどの芸術家や芸術批評などが「実在」するものだと勘違いして、この「物語」を前提に制作したり、芸術論を展開したりしてしまっていることだ。アヴァンギャルドに胸を打たれた人が自らもアヴァンギャルドたろうとしても、「モダニズム物語」に惑わされ、この「物語」にエントリーすること、この「物語」に新しい1ページを付け加えることが自分の進む道だと勘違いしてしまう。その結果、若い新世代のアヴァンギャルドは、自分の思惑に反して権力のスペクタクルをより豊かにするために働かされることになってしまうのだ。「生きられる文化」は、カーニバルのように瞬間のうちに燃焼する生のことであって、歴史的に展開してゆくものではない。上のような図があらわれたらまず疑いにかかったほうがいいだろう。意識の中に侵入してくる寄生虫のようなモダニズムの「物語」を駆逐しなければならない。