泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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ニーチェの『悲劇の誕生』における、アポロン的なものと、ディオニュソス的なものという概念は、実はちょっと混乱した概念である。

、、、どちらもショーペンハウアーの表象と意志の区別から引き出された概念であることは間違いないが、2つの問題系がまぜこぜになっていてそれが噛み合っていないのである。
 ひとつは芸術論であって、ショーペンハウアーの、表象の模倣である「美術(視覚的な造形芸術)」と、意志の直接の模倣である「音楽」の区別を、それぞれアポロン的芸術、ディオニュソス的芸術と言い換えたものである。これは「夢と陶酔」とも表現され、ギリシャ悲劇やワーグナーの楽劇の解釈に使われ、ご存知のように音楽の精神(ディオニュソス的なもの)がそれらの根源を形作っているというのがニーチェの主張である。
 だがもうひとつ、文化人類学的というか構造論的とでもいうべき問題意識でもアポロンとディオニュソスの比喩が使われている。こちらは一言で言うと「秩序と反秩序(混沌)」という対立のメタファーになっている。ショーペンハウアーによると「個体化の原理」によって物自体(意志)が表象化することで、個としての人間存在を含めたこの世界が形作られ、死すべき運命にある有限な人間の苦悩や悲哀もまた生まれるとされる。しかし厭世的なショーペンハウアーと違って、ニーチェが強調するのは祝祭の陶酔においてそうした個我の限界が破られて、人間が永遠の世界意志と一体化する歓喜の瞬間である。踊り歌う民衆は、その生そのものが芸術作品だというのだ。つまりここでニーチェは、ショーペンハウアーの「表象と意志」の教説を「個を基盤とした秩序ある日常性」と「個を脱した陶酔的な非日常性」との対立に読み替えているのである。実際にニーチェの記述を読んでみると、アポロンとディオニュソスというメタファーが、「日常と非日常」「文化と野蛮」という構造的概念になっているのがよくわかると思う。ギリシャ悲劇のニーチェ流の分析も、「秩序ある」アテナイの(アポロン的な)演劇文化の中に、外部の民族の「野蛮な」祭りの習慣(ディオニュソス的陶酔の文化)が侵入し、アッティカ悲劇が受胎したという構図になっている。
 この「夢と陶酔(造形芸術と音楽)」という美学的な問題系と、「秩序と反秩序(混沌)」という構造論的問題系は、アポロンとディオニュソスという一対の概念でまとめることはできない。この点が『悲劇の誕生』という本に混乱をもたらしているのだ。視覚的表象的な芸術である「美術」が、スタティックで秩序ある文化で、一方の音楽は反秩序的でエモーショナルなものだということには必ずしもならない。造形芸術が反秩序的なこともありうるし、ニーチェ自身もスタティックなアポロン的音楽について本の中で語っている。ギリシャ悲劇もワーグナーの楽劇も、演劇や美術という視覚的要素と音楽の二面性で成り立った総合芸術であるために「夢と陶酔」という美学的対立概念が活用されているのだろうが、重要なのはむしろ「秩序と反秩序(混沌)」という構造的対立の概念のほうだろう。つまり一口に文化と言っても、秩序に関わる文化(アポロン的文化)と、秩序からの解放に関わる文化(ディオニュソス的文化)2つの形態があるということ、そして後者のディオニュソス的文化、秩序からの解放(反秩序)こそが文化の根源をなしている、ということこそ本来ニーチェが「アポロンとディオニュソス」という一対の概念で言うべきことだったと私は思うのである。
 秩序は、日常性、禁止、権力などと関わっており、アポロン的な文化は現行の秩序を肯定し賛美するスペクタクルとしての性格を持っている。一方のディオニュソス的文化の反秩序的なあり方は、カーニヴァル、革命など体制秩序の反転や転覆と関わり、日常性や禁止からの解放という側面を持っている。『悲劇の誕生』の影響を受けていたバフチンは後に、アポロンとディオニュソスの対立を、「公式文化」と「非公式文化」の対立に置き換えるだろう。ロシア革命の時代を生き、カーニヴァル論を展開したバフチンにおいては「夢と陶酔」の美学的問題系はすでに消滅している。
 が、『悲劇の誕生』でニーチェはいみじくも「ディオニュソスなしにはアポロンは何者でもない」と、文化はあくまでディオニュソス的な反秩序のエモーションを根源としているということ、また、アテナイの支配階級の文化であったギリシャ悲劇がまさにそうであったように、権力の文化である「芸術」が文化の名に値するものであるためには、ディオニュソス的なエモーションが何らかの形で「芸術」というアポロンの中に侵入していなければならないことを明かしている。
 さらに大事なことは、文化そのものを骨抜きにし死に追いやるものとしてニーチェは、ソクラテス(楽天的理性主義=啓蒙)というもう一人のプレーヤーの名を挙げていることだ。啓蒙と手を取り合った資本主義の精神が、芸術と祝祭(アポロンとディオニュソス)双方を滅ぼしてしまったのを、私たちは現在目のあたりにしている。『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇にかこつけて、実はブルジョワ社会における文化の運命について語っているのであり、その意味では21世紀の現在においても古びていないテクストであると言っていいだろう。また、文化の再生をワーグナーの楽劇というスペクタクルに求めてしまったことについては、後に二ーチェ自身によって自己批判されることになる。


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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