泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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情けないことに「天才」という言葉のいかがわしさに気づいてからもう30年も経つというのに

、、、例えば他人に不当な扱いを受けたときなど、未だに「オレは天才なんだぞ、、、覚えとけよ!」と心でつぶやき自分を慰めたりすることがある。
 単純なことで、一人として同じ人間はいない以上、人の為すこと、為せることには当然違いがあり、差があるわけだが、「天才(才能)」という言葉は、その違いに優劣をつけているのである。つまり「天才」という言葉は、より価値のある人と価値のない人の序列を前提とした言葉なのだ。文化的な天才に限って言えば、、、芸術家(アーティスト)などの文化的生産者は天才に近づけば近づくほど、より卓越し、より価値のある文化的生産を為しうるし、才能がない人間は天才が創り出した文化的生産物を礼拝したり消費したりするだけの受動的な観客へと、文化的に疎外されるのである。こうした「天才」と「天才」によって生み出されたものにこそ価値があるとする文化のあり方を、私は「卓越の文化」と呼んでいる。
 「卓越の文化」は、その文化が「芸術」(高級文化)であろうと、「大衆文化」(文化産業)であろうと、あいつよりオレのほうが上手い、とか、あの人の作品のほうがこの人のより新しいとか洗練されている、深いなどなど。また、商業的な文化でも同様にどちらのほうが人気があり、売れているなどと常にその優劣の比較が問題にされ、より優れたものに文化的価値を置こうとするのである。
 今日私たちが思い浮かべる「文化」なるものは、ほとんどこの「卓越の文化」なのではないだろうか。若い人がクリエイター(文化的職業)なんてものになろうと考えたとき、まずぶつかるのが「オレには才能があるのだろうか」問題である。天才的な才能がなければ食えないだけでなく、その仕事に価値もないというのである。また友人やライバルと優劣を競い、嫉妬や優越感に翻弄され、すでに成功を収めたクリエイターと自分を見比べては絶望する。天賦の才に恵まれたものだけが栄光を掴み、才能ないオレはやはり天才の仕事を礼拝し消費する観客の側に回るしかないのか、、、さらに成功したクリエイターはといえば、自分の地位が新参者に奪われるのではないか、自分の仕事の価値が落ちてゆくのではないかと戦々恐々と闘い続けなければならない。遠い昔から続く文化シーンの本質とはこうした承認欲求の憂鬱な競争の場だったのだろうか。思うに文化と天才(才能)がセットで語られる背景には、文化とはすべからく「卓越の文化」であるという前提が自明なものになっているからに他ならない。
 ペーター・ビュルガーはアヴァンギャルドの中に、「天才」の概念と、文化的生産者(演者)と受容者(観客)の区別の否定を見出している。

 まず従来のブルジョワ芸術〔市民芸術〕の芸術作品の生産に対して、アヴァン ギャルドの「生産」は何か新しいのだろうか。自律的なブルジョワ芸術の生産は個人的なものである。生産の担い手である芸術家は個人として生産し、芸術家の「個性」は「ラディカルに特殊なもの」と把握される。つまり「天才」の概念である。 これに対してアヴァンギャルドは「個人の生産」というカテゴリー自体を否定する。 アヴァンギャルドの作品は天才をまったく期待せず、そもそも作品制作に才能を必要としないというメッセージを送っている。たとえば、デュシャンの有名な「泉」は、大量生産品である小使器に署名(偽名)をし、それを美術展に出品することによって、個人的生産ということを無効化する意図をもっていた。ビュルガーによれ ば、デュシャンの行為は作品の質ではなく署名の方が重きをなす芸術市場を挑発したことにとどまらない。個人を芸術作品の創造者であると考える原理が否定されているのである。
 また、アヴァンギャルドは作品の個人的な受容も否定する。ダダのイヴェントはイヴェントにおいて挑発され憤激した観衆がイヴェントの一部に巻き込まれることを 意図している。そもそもアヴァンギャルドは生産者と受容者の区別に異議を唱える。 これが明確に表れているのが、ダダ的な詩を書くためのツァラの教示や自動筆記によるテクストの構成法に関するアンドレ・ブルトンの手引きである。彼らの処方にしたがって人々が書き、実際に生産者になることをアヴァンギャルドは望んでいた。
モダニズムからアヴァンギャルドへ(ペーター・ビュルガー)』 田辺秋守


 これはつまり「卓越の文化」の否定であり、ビュルガーはそれとは別の文化形態である「生きられる文化」のあり方を指し示しているのだ。それはダダ、シュルレアリスムやロシア・アヴァンギャルドなどのプログラムから抽出された「芸術と生活実践が一体となり、実践が美的であり、芸術が実践的である」という彼の言葉通り、万人が「生きること」が即「文化」であるようなあり方である。
 「生きられる文化」がいかなるものなのかのイメージを掴むためには、バフチンのカーニヴァル論を参照するべきだろう。つまりデュシャンの小便器の面白さはカーニヴァルの面白さなのだ。カーニヴァルにおける民衆の興奮(生きる歓び)に「天才」は無縁である。誰が誰より上であるとか下であるとかいう序列(秩序)や序列を測る物差しが転倒し無効になっている状態がカーニヴァルの時空である。高貴なものが引きずり降ろされ、卑しいもの、淫らなものが持ち上げら、人々を縛っていた秩序は徹底的に「笑い」のめされる。こうした禁止(秩序)からの解放が反芸術(アヴァンギャルド)の本質である。反芸術活動はアートワールドをカーニヴァル化しようとしたのである。
 クリエイターに憧れ、クリエイターになろうと考えるとき、おそらく人はシステムが押し付けてきている文化的疎外から逃れようとしているのだ。観客ではなく演者の側に回る(天才へ上昇する)ことで自律した生を取り戻そうと思っているのだ。が、それはやはりシステムへの隷属なのであって、自律のためにほんとうに必要なことは秩序内部での上昇ではなく、「卓越の文化」と「卓越の文化」というスペクタクルによって自らを維持、再生産し続ける現行体制(秩序)とその疎外を否定すること、現行秩序のゲームの土俵から降りること、すなわち「生きられる文化(カーニヴァルの生)」への移行でなければならない。
 ダダやシュルレアリスムもそうした試みであったはずなのだが、敵もさるもので、小便器という既製品を美術展に展示することで個人を芸術作品の創造者であると考える原理を否定したはずのデュシャンを、今度はそうしたアクションのコンセプトを考え出した「天才」として祭り上げ、「生きられる文化」の実践であったものを「卓越の文化」のに引き戻してしまい、いつの間にか私たちの前には、天才デュシャンや天才ピカソという卓越した個人がいるだけである。ダダもシュルレアリスムもいまや「天才」たちの技にされてしまったのだ。つまり、ゲームを降りた人の実践をゲームのルールに従って行われたものとして解釈し直すこと、これが現行体制の文化的権威であるアートワールドの主流言説であるモダニズム系言説の行っている簒奪行為である。
 しかし「生きられる文化」は美術館とか劇場だけに限られるものではない。カーニヴァル化すべきは路上であり、生活全体であるべきだろう。自分たちの活動は「芸術=卓越の文化」ではないと主張していたシチュアシオニストの実践とは何であったのか。5月革命以来繰り返される路上占拠や小さな自律的空間の創造とは何なのか。それは反芸術活動と同じ「生きられる文化(カーニヴァルの生)」の実践なのではないだろうか。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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