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泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 亡霊退治   Tags: ---

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バフチン 中世の公式な祭日

中世の公式な祭日── 教会の祭りも封建国家の祭りも── は現存する世界秩序から外へは導かず、いささかも第二の生活を創り出すことはなかった。反対に、現存する機構を聖なるものとして裁可し、機構を強化したのである。〈時〉とのつながりも形式的なものとなり、交替や危機は過去へ運び去られてしまった。公式の祝祭は実際は後ろの過去のみを見ており、この過去を使って、現に存在する機構を神聖なものとしたのである。公式の祝祭は、時には祝祭自身のイデーに反して、すべての現存する世界秩序── 現在の階層秩序(ヒエラルヒー)、現存の宗教的・政治的・道徳的規範、禁止(タブー)── の安定性、不変性、永遠性を確認することさえあった。祝祭は、永遠で不変の、論議の余地なきものとして立ち現われた、既成の支配的な真理の勝利であった。そのため、公式の祝祭のトーンは一枚の岩からできているような厳粛でしかなかった。笑いの原理はその本性には異質のものなのであった。正にこのために、公式の祝祭は、人間の祝祭性の真の本性に背きそれをゆがめたのである。しかし、この正真正銘の祝祭性は根絶やしにはできなかった。それゆえに真の祝祭性は容認され、祝祭の公式な面以外の場所では部分的に合法とされ、この真の祝祭に民衆の広場が譲り渡されることとなった。
ミハイル・バフチン 『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネサンスの民衆文化』



バフチンによる公式文化についての記述は、スペクタクルの特徴の解説になっている。今日の公式文化である「芸術」においてもこの厳粛さという特徴は揺いでいない。19世紀中盤から現れた「反芸術」運動は、非公式的な笑いの原理をその本質としていたのだが、権力による解釈(モダニズム)はそれをストイックで厳粛なものとして描き直した。現代芸術評論の難解な言い回しは芸術の営みがとにかく求道者の修行のように真面目で真剣なものであることを示そうとしている。芸術家自身も難しい顔をしながら自分の仕事を、権力由来の概念で理論武装することに余念がない。カンディンスキーやモンドリアンやマレービチの丸や四角だけを描いた幾何学的抽象なんて本来、芸術の厳粛さを文字通り笑いのめし踏みつける所業なのだが、その理論的背景を難しい言葉で長々と語るのだ。いまや髭をつけたモナリザすらモダニズム流解釈を施され、現に存在する機構を神聖なものにするために働かされ、モダニズムのストイックさに反抗して現れたポストモダニズムは、モダニズムが排した大衆文化や伝統文化やインモラルなイメージを大胆に取り入れたが、結局どこまで行っても厳粛なものにとどまっている。というのもそれらは卓越の文化であるからで、卓越、優越という事態そのものが階層秩序(ヒエラルヒー)と直結し、権力の視線を受け入れているからである。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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