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泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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疎外論における演劇のメタファー

「カー二ヴァルには演技者と観客の区別はない。カー二ヴァルには、たとえ未発達の形式においてですらフットライトなるものは存在しない。フットライトがあれば、カー二ヴァルはぶちこわしになろう(逆に、フットライトをなくせば、演劇的見世物はぶちこわしになろう)。カー二ヴァルは観るものではなく、そのなかで生きるものであって、すべてのひとが生きている。というのも、 カー二ヴァルはその理念からして、全民衆的なものだからである。カー二ヴァルがおこなわれているあいだは、誰にとってもカー二ヴァル以外の生活は存在しない。」


 、、、というバフチンの言葉を何度か紹介しているが、この演者と観客を二分する「フットライト」の比喩で問題にしているのは演劇(芸術)論ではない。演劇(芸術)のメタファーで語られた疎外論である。
 もうひとつ、ドゥボールのスペクタクル批判も受動的な「観客」という言い回しを使っているが、これも演劇(芸術)論ではなくて疎外論である。シチュアシオニストの活動が、ダダ・シュルレアリスムなどの前衛芸術運動を先鋭化/換骨奪胎したものであることや、都市空間をデコール(舞台)と見なし状況への介入を企てるという演劇のメタファーを使ったマニフェストをそのまま演劇論として受け取るなら、(多くの知識人が勘違いしているように)シチュアシオニストを政治的な問題意識を持ったフルクサス的な前衛芸術(パフォーマンス、ハプニング)集団と誤解してしまうのもわからないでもない。

『解放された観客』 ジャック・ランシエール

 今のところランシエールの書いたものはこれぐらいしか読んでいないのだが、共感半分、疑問半分という印象を抱いている。この文章は、今日話題の参加型アートのような、演者と観客の間の距離を消し去り、観客を創造・表現活動に巻き込む演劇/芸術の批判をするのだが、ランシエールの著書『無知な教師』で展開した公教育の教師を批判するスキームで、芸術家(演者)のパフォーマンスの意味を暴露するものである。ランシエールの公教育批判は、教師が生徒を無知なものであることを捏造(愚鈍化)することで、システムの中で生徒より卓越した教師としての地位を得るという詐術と、その捏造がシステムとその中での地位(ヒエラルキー)を再生産するカラクリを喝破し、知性の平等とは何かを示すことにある。
 つまりこれは教育の疎外のメカニズムの暴露なのである。このスキームを用いてランシエールは演者と観客の間の距離を消し去る形の芸術パフォーマンス(例えばブリオーの「関係性の美学」とか)を批判するわけである。このスキームを芸術の領域にそのまま当てはめれば、芸術家(演者)は、そのパフォーマンスに触れる者を観客化(受動的な)することで、(はじめて)芸術のシステムの中である卓越した演者(能動的な表現者)という地位を得る(芸術家になる)、というカラクリが浮かび上がってくるだろう。
 ランシエールのスキームは、文化の疎外を暴露し、文化の平等(自律)とは何かということを示してくれるはずである。が、どうもすっきりしないのは、ランシエールのこのテクストにはドゥボールのスペクタクル批判の断章が、演者と観客の間の距離を消し去るタイプの演劇(ここではアルトーの残酷劇が話題に登っている)の本質を裏書きするものとして引用されていることである。
 すなわちスペクタクルに見入る(受動的な)観客というドゥボールの(演劇のメタファーで語られた)疎外論が、(能動的な)演者と(受動的な)観客の間の距離を消し去る形の芸術の本質(=演劇論)とアレゴリカルに重ね合わされているのである。ランシエールは演劇(芸術)論と、(演劇のメタファーを用いた)疎外論を混同し同一視するという誤りを犯しているのだ。
 はっきりとは言及されていないもののこの理屈によると、スペクタクル批判と表裏一体のシチュアシオニストの実践は、一種の前衛演劇(芸術)だという理解に落とし込まれてしまうだろう。シチュアシオニストは自分たちの活動が「芸術」ではないと主張し続けていたにもかかわらずだ。
 演劇(芸術)論における能動性は、フットライトで仕切られたステージ上の「演者」に付与されているが、(演劇のメタファーで語られた)疎外論において「演者(=芸術家)」は、スペクタクルに見入る(=支配的システムのヒエラルキーのなかで地位を得ようとしている)ものであり、その限りでむしろ(疎外された)受動的な存在、である。つまり「演者(=芸術家)」そのものがまず「観客」なのだ。
 演劇(芸術)論における能動的な「演者」は、(受動的な)「観客」との距離を消去し、すべての人間が能動的でクリエイティブな「演者」になるべきだ(万人が芸術家であれ!)と言うだろうが、疎外論における能動性は、演者/観客という疎外された(上下関係)二項への分離そのものの消去を、演者(=芸術家)でも観客でもない何かになることを要請するだろう。
 参加型アート、、、例えば古くはヨゼフ・ボイス(この人はよく、万人が芸術家であれ!と言っていた)、最近ではブリオーの持ち上げているリクリット・ティラバーニャ(インド系の名前かと思ってたら、なんとタイ人アーティスト! 正確にはฤกษ์ฤทธิ์ ตีระวนิช­=リクリッ・ティーラワニッ だな。)、熊倉敬聡が紹介している「アートレス」だとか「ワークショップ」などは明らかに演劇論的な受動性の消去を目指す試みである。ここで創造に参加することになる人々は、一時的にプチ演者(プチアーティスト)になる(される)が、そのことは疎外からの自律、文化の平等につながっているとは思えない。むしろ「観客」との距離を消去する実践がヨゼフ・ボイスやリクリット・ティラバーニャという個人のアーティストの芸術の世界(アートワールド)における地位を高めるほうに働いてしまっている。結果的にそれは非常に巧妙なスペクタクルになってしまっているのだ。
 それに対してシチュアシオニストのスペクタクル批判とは、演者として卓越することではない。

非一介入というスペクタクルの原理そのものが、古い世界の疎外といかに深く結び付いているかは容易に見てとれる。それとは逆に、文化における革命的探求のなかで最も価値あるものが、スペクタクルの観客のヒーローへの心理的同一化を破壊し、自分の生を一変させる能力を引き出すことによって、その観客を積極的な行動に引きずり込むようにどれほど努めてきたかもよく知られている。状況とは、したがって、それを構築する者たちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの「公衆(=観客)」役割は、常に減少することになる一方で、もはや演者ではなく、言葉の新しい意味において「生きる者」と呼ばれる者の関与するところが増大する。


 観客でも演者でもないもの、、、「生きる者」になるのである。万人によって生きられる文化、それをバフチンは「カーニヴァル」と言っていた。たぶんランシエールは良心的で頭のいい思想家なんだろうが、平等のイメージがどこか貧困なのではないだろうか。文化の平等、疎外からの自律のイメージはバフチンの描く「カーニヴァル」を参照すべきなのだ。バフチンのような豊かなイメージを持っていれば、上のドゥボールの言葉を演劇論と勘違いしたりはしないだろう。私には、シチュアシオニストたちがまさに「無知な教師」に思えてならないのだが、どうなのだろう。


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荒井賢 (Ken Arai)

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