泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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思考停止ではなくて

 「ミクロな権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きる」という終生の運動こそが「祭り」である、というaraikenさんの応答は、その裏面を解釈すれば、そういう終生の運動なのだから「祭りの後」の具体的な改革ビジョンなどを考えたり用意したりする必要は無いのだ、という思考停止の免罪符としても受け取れる。
これは人によっては、仲正に毒された、少し意地悪に過ぎる見方だと思われるかもしれない。


 ………ときはむさんは言ってるんだけど、具体的な改革のビジョンが不要だと思ってるんではなくて、当然考えるべきだけど、それはミクロな闘争と一つのものでなければ意味がない、と僕は言いたいのだ。というのも………

 「労働者」の意識が資本主義の「(自己)・再生産」構造に完全に囚われ、自らそのプロセスに参与している(=物象化)のだとすれば、一足飛びに「資本」の運動を越えた「プロレタリアート」になれるはずはない。”革命”を行ったつもりでも、資本主義的な生産体制を再編するだけに終わってしまう(=「計画」経済=スターリン主義)。労働者階級が、資本によって規定=定義されている限り、資本主義の「平面=計画 plan」から抜け出すことはできないのである。


 これは仲正さんが『左旋回』で書いてることだけど(185ページ)、人間の意識というものの重要性をすっ飛ばしては改革したところで、現状肯定どころか社会の改悪になりかねないので、安直には具体的なビジョンなど打ち出せないだろう、ってことです。だいたい仲正さんは、きはむさんのようにせっかちに具体的なビジョンを出すべきだとは言ってないんじゃないだろうか。ご本人はずいぶん短気な人のようだが、具体的なアクションには意外なほど消極的に見える。
 たとえば『なぜ「話」は通じないのか』という本の中で、仲正さんは竹田青嗣という人のポストモダン批判を俎上に載せている。

 
ポストモダニズムの中心思想をひとことで表現すれぱ、反規範主義、反形而上学と言うのが適切かもしれません。つまり「絶対的なもの」「規定的なもの」「権力的なもの」に対する徹底的な「否定性」ということです。この考えはたしかに資本主義とマルクス主義の両方に対して強い批判力を発揮することになります。(……)しかし、そのような重要た役割を果たしたものの、ポストモダニズムは、社会思想としては、はっきりした限界をもっていました。いまから考えると、この思想は、きわめて思弁的な性格を含んでいたことが分かります。それは高度資本主義社会の人間の微妙な閉塞感を表現するいわば"文学的"な思想であり(フランス思想だったのも頷けます)、現代社会とその制度的現実に対して「精神の内的自由」を対置する、徹底灼な「否定性」の、へーゲルの言葉では徹底的な「イロニー」(=アイロニズム)の態度の現代的な表現でした。規範と制度で凝り固まった愚かしい現実社会とその諸制度が人間を圧迫しているが、自分たちはあくまで否定性を貫いて内的な精神の自由(エスプリ)は確保したい、ここにポストモダニズム思想のややロマンティックな本性があると言えます。だからそれは、現実社会を改変してゆく新しい明確な展望を打ち出すという点では、明らかな弱点をもっていました。たとえぱ、一切を懐疑に付すポストモダニズムの否定精神は、その本性上、現実的な社会思想としてほとんど無効である、といった批判がハーバーマスなどから出され、一定の留保つきですが分析哲学のローティもこの意見に同意しています。脱構築の思想は、あらゆる制度や価値を相対化はするがその先の展望を示すことができないわけです。(竹田青嗣『現象学は〈思考の原理〉である』98〜101ページ)


 これに対して仲正さんは………

 ………更に言うと、「ポストモダニズムは、現実社会を改変してゆく新しい明確た展望を打ち出すことができない」というのも、全共闘世代の知識人のポストモダン批判の決まり文句であるが、これもあまり意味のある話ではたい。「展望を打ち出す」”だけ”でいいのなら、簡単である。(……)運動とか制度を作るための「展望」なら、単に「打ち出す」だけではなくて、ある程度現実化しなければしょうがないのだが、竹田青嗣自身が本を書いて社会構造に変化をもたらしたという話は聞いたことがない。ポストモダニストに現実変革力がないと言っていながら、自分でも変革できそうにないのだから、余計にたちが悪い、と私は思う。それとも、ドン・キホーテ的に叫んでいるだけでも十分に立派だと思っているのだろうか。全共闘世代の人たちは、「近代を越えるオールタナティヴを出せ!」と叫びたがるが、自分の言っていることの意味が分かってたいような気がする。「哲学」というものが、「思考の原理」であるとするならぱ、「最終的た答えのない状態を耐えて生きていくしかない」というポストモダン的な態度を選択することも、一つの哲学的な「展望」ではないだろうか。


 『左旋回』を読んでみると、仲正さんは意識の変革の重要性をよくわかっているし、マクロ的な意味での政治とは趣の異なる「脱構築」のような地味な作業の持っている高度な政治性をしっかりと理解していると思う。それだけにガタリのミクロ闘争(分子革命)についても肯定的に扱っていたのだろう(浅田彰のような亜流は厳しく批判しているが……)。
 それに、きはむさんに紹介してもらって読んだ『不自由論』だって、気短な自己決定を戒めるような内容だったし、最後のマルチチュードについて語ってるあたりでは、対抗的な運動をせっかちに押し進めようとする左翼の態度を批判している。実際仲正さん自身に具体的な展望があるかと言われれば、たぶんないだろうし、出す気もないのではないだろうか。でもそれは政治の欠如でも、思考停止でも、現状肯定でもなくて、そういうビジョンを出すことの困難さってことを言いたいのだと思う。
 もし、具体的なビジョンのようなものが浮かび上がってくるとしたら、マルチチュードについて仲正さんが言ってる「その場に何となく集まって相互にコミュニケーションしている内に、そこから新たな(権)力のあり方が想像されてくる……」とか「マルチチュードの内から、社会的イマジネーションによって構成的権力が具体的に動き出すまで待つ……」ような形でしかあり得ないんじゃないだろうか。ただ、それはボンヤリと待ってるんじゃなくて、徹底したミクロな闘争によって裏打ちされていなければならないってことだが……。少なくとも僕はそのようにイメージしている。
 きはむさんのせっかちな態度を見てると、やはり人や社会を動かすのは結局のところ制度的な権力だけだ、と考えてるようにしか思えない。ミクロ闘争の意義は認めるようなこと言ってるけど、あまりピンとこないってのが正直なところなんじゃないだろうか。だからこそ具体的なビジョンのなさが政治の欠如や現状肯定にしか見えないし、それに苛立つのじゃないだろうか。意識の変革の重要性がわかっているなら逆に具体的なビジョンなんてこと迂闊に口に出せなくなるんじゃないかと思う。だから、きはむさんが「今更ミクロ闘争だけではダメだ」なんて言ってるの聞くと、ミクロ闘争の何たるかも掴んでいないのに、なにが今更なんだろうって言いたくなっってしまうのだ。
 でも確かに僕自身のことを言うと、具体的なビジョンなんて何もないし、きはむさんの言う通り、出す必要なんかない……いや敢えて考えていない、ってのも事実だ。確かosakaecoさんがコメントしていたことだけど、「設計図を敢えて持たない」みたいなやり方があって、それがミクロ闘争の目的性と両立する………という方向に話を続けようとしたんだけど………長くなりそうだし、ちょっと仕事が忙しいので続きはまた来週にでも。スンマソン。

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Comments
 
きはむさんんのところに関連するコメント書きました。
 
kenさま、おはようございます。
TBさせて頂きました。勉強不足故に思いきし的外れかもしれませんが、私の中では「そうそう、そうなのよぉ〜」なんて、例のごとく思ってしまいました。
「ちげぇ〜よ!」については、出来れば詳しくご指摘頂ければうれしゅうございまする。祭りの戦士読むのに、単語から調べないと理解できないものですから(涙)
 
araikenさん、こんにちわ。
きはむさんがまた意見を書いていますね。これについては私なりにコメントを寄せておきましたので、氏のブログをご参照下さい。
ところで、たまたま、ジャン・ジュネやデリダの研究者である鵜飼哲さんの『抵抗への招待』(みすず書房)という本を見ていたら、荒井さんのいう「ミクロ闘争」の必要性、というようなことと関係しそうな記述があったので紹介したいと思います。この本の「あとがき」で鵜飼氏は、「今日、国際社会で民主主義国として通用している国のほうが、しばしば人権抑圧を指摘される国以上に「警察国家化」しているように見えるのはなぜだろう?」と問いかけ、「警察暴力」についてのベンヤミンの文章を引いた上で、次のように書いています。
「私たちの時代の抵抗の試みは、(中略)法措定的かつ法維持的な、国境の内にも外にも「いたるところに遍在するオバケ」のような、民主制に固有な「警察の精神」に対する抵抗の可能性の探求であるほかはない。そしてその探求は、(中略)国民国家の没落期には移民、亡命者、無国籍者、さらには帰化者を含めた外国人一般がつねに潜在的犯罪者とみなされる必然性が存在する以上、内在的、不可避的に「外国人」という存在に関わることになる。(中略)
さらに、この「警察の精神」に監視されているのは本来の意味の「外国人」ばかりではない。私たちの感性や知性もまた、すみずみまで、このまなざしの下に晒されている。私たちが一歩踏み出すごとに、言語、家族、学校、企業、出版装置、国家にいたる制度が立ちはだかり、あれこれの踏絵を踏ませようと待ちかまえている。このようなシステムの論理と神経症を内面化することなくこの消耗戦を支え抜くために、今、切実に求められているのは、警察的な視線とは無縁な、ある別の「まなざし」だろう。」
ここで鵜飼氏が言っているように、日本を含めた今日の「民主主義国家」が実質的には<警察国家>と化し、まさに「フーコー=オーウェル的監視社会」と化しつつある、とすれば、ミクロなレベルでの闘争には、まさに<具体的>な意義がある、ということにはならないでしょうか。それは少なくとも、この社会が「より悪く」なることへの抵抗という意味を持つはずですし、強制的・暴力的な形での「社会的再統合=異質分子の排除」への異議申し立て、という意味を持つはずです。
「引きこもり」や「ニート」の若者が、強制的に軍隊や収容所にほうり込まれるような「警察社会」だけはごめんですね。そのためには、しんどくても、それぞれの個人レベルでの抵抗の姿勢が重要となってくるのではないでしょうか。
 
そうなのです。その「別のまなざし」を具体的な形にしてゆくのがミクロの闘争なわけです。それはたぶん警察の視線が分割し、排除、収容するであろう有罪者たちの名誉を回復させることでもあります。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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