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泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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大衆文化の批判と擁護

 アドルノの軽音楽批判というのがあって、これが「啓蒙の弁証法」あたりに共感を寄せる左系の人々にも評判が悪い。資本憎しのアドルノにとって資本の息のかかった軽音楽(大衆文化)は、彼が深窓の乙女のごとく持ち上げるモデルネの自律芸術と較べると、まるで汚れた売女のような扱いだ。

音の氾濫、反乱の音 ── 大衆音楽の両義性 小倉利丸

曰く、そうした軽音楽は、大衆に「無軌道な熱狂状態」と「規格化」をもたらすものだと頭ごなしに批判されるし、そのときアドルノの頭に浮かんでいるだろう大衆像はそうした文化装置に操作されるだけの愚民の集まりになってしまっている。
 小倉利丸氏はロックがお好きなようだが、左翼の知識人の中にもジャズやヒップホップ、あるいは文化産業の花形である映画のファンはいっぱいいて、こうしたアドルノの鼻持ちならない上から目線ってどうよ、という話になるわけだ。
 私個人の話をすれば、どういうわけかロックにも映画にもあまり興味を持たずに生きてきた。私が若い頃愛してきたのは、漫画、アニメ、SF、ロリコン、、、いわゆるオタク文化だった。ひょっとするとロックや映画を擁護する知識人たちも、オタク文化の幼児的なフェティシズムやメディアへの(無軌道な)没入に対しては顔をしかめるのではないだろうか。が、間違いなく私自身、オタク文化という大衆文化以上に汚れた売女たちの世話になって自己形成してきたのだ。

 それではアドルノの文化産業論は全くの誤りなのかというと、そういうわけではなくて、いわゆる消費社会批判の先駆けとして揺るぎない真実を描き出しているのである。ただそれは抽象的な理論図式として真実であるにしても、具体的な現実をアドルノが観ているかといえばそうは思えないのである。
 こうした理論図式の意義は、自明化した現実への没入状態にある私達を揺さぶり、現実から一歩引いた地点に立つことを可能にしてくれるところにある。当たり前に受け入れ楽しんでいるものが、私達を疎外の中に留め置くための仕掛けになっているのではないかと、鋭利で挑発的な理論の切先が覚醒を促してくれるのだ。
 しかしアドルノは、自分の理論図式を現実に押し当て、資本の息のかかった売女(大衆文化)は、結局システムを再生産するために働くしかないのだから、そこに抵抗や闘争を見出すことなどできるわけがないと決めつけているようにみえる。まず図式ありきで、売女が客の私に示してくれた優しい気遣いや微笑み、触れた唇の柔らかさなどに思いを巡らしてみることなど端から放棄されている。所詮金目当ての手練手管なんだろフフン、というわけである。

 アドルノの理論図式の誤りを指摘するのは多分難しくないだろう。彼の持ち上げる芸術(高級文化)も、軽蔑する大衆文化(低級文化)も、本質的にはどちらも権力に奉仕するスペクタクル(卓越の文化)であるという意味では大差はないのだが、彼は反芸術運動(モデルネ芸術)を観て芸術の領域に希望を持ってしまった。自律芸術という、瀟洒な洋館の窓辺に佇む乙女だけが暗い彼の心を救う天使になったのだ。本来、反芸術は文字通り芸術(卓越の文化)に反する、芸術ではない文化(生きられる文化)なのだが、その点を取り違えてドイツ人が発明した芸術というサブシステムの(メインシステム=権力からの)自律という物語に乗っかって、ブルジョワ権力(資本)の魔の手から乙女の純潔(芸術=高級文化の領域)を守らなければならないと勘違いしてしまったのだと、私は邪推している。
 だが自律すべきは芸術という領域ではなくて、私達一人ひとりの生であろう。反芸術運動とは、たまたま19世紀後半からの100年のあいだ、芸術(卓越の文化)の領域を、疎外からの生の自律の試み(生きられる文化)が流用し、乗っ取ったものであって、そうした乗っ取りは社会システムのあらゆる領域で展開可能なものである。かつては祝祭やカーニヴァルのような形で、生きられる文化は大規模に組織されていたが、近代化とともにすでにそれは散り散りになってゲリラ的に生き延びることになり、19世紀中頃から芸術の領域にも侵入してきたのである。
 アドルノが資本の手に掛かった売女と見なしているであろう大衆文化の中にも当然、疎外からの生の自律の試み(生きられる文化)は侵入している。厳しい制約の下、意識的無意識的に試みは続けられ、時には制約を突破して祝祭らしきものが噴出することもあるだろう。アドルノならそれを「無軌道な熱狂状態」と罵るかもしれないが、そもそも生きられる文化特有のエモーションの侵入がなかったなら、人は大衆文化において熱狂状態に陥ることもないのではないか。大衆文化であろうと、ナチのプロパガンダ芸術であろうと、社会主義リアリズムであろうと、単なる大衆操作ではなく、疎外を越えようとする試みが何らかの形で侵入しているからこそ、人を惹きつけることができると考えるべきではないだろうか。金で買ったはずの売女が単にアバズレ女ではなく、どこにでもいる普通の女なんだと気がついて、心を震わせながらまた娼館に上がる男は、商品化した性の消費に取り憑かれた愚かな大衆でしかないと言い切れるものだろうか。
 つまりアドルノが大衆操作を見ている局面で実際に起きているのは、大衆の自律の試みと、権力との間の闘争なのである。なるほど資本主義の精神は制度やモノの中に物象化し、もはやシステムとその疎外は確実に再生産されびくとも動かぬ鉄板なものに思えるが、逆に物象化させる人間の意識の支えがなかったらシステム全体が浮いたものになり、簡単に崩壊しうるものでもある。だからこそ資本の側も必死に関係性全体を正統化する闘いを絶えず強いられているし、大衆(プロレタリア、マルチチュードと言ってもいいが)も資本と絶えざる自律への駆け引きをおこなっているのだが、アドルノの抽象的で透明な理論図式からは、こうしたダイナミズムへの視線は感じられない。むしろ操作されるだけの大衆への苛立ちや軽蔑がちらついているようにすら見える。アドルノのペシミスティックな論調というのは知的良心から出てきたものではなく、おそらくこういった偏見に基づいていているのではないだろうか。

 もちろん私はアドルノ同様に大衆文化というフレームを厳しく批判する立場にある。ただしアドルノと違うのは(モデルネ)芸術をも同時に批判するというところだ。というのもどちらも卓越の文化(権力に奉仕するスペクタクル)という疎外された関係性の文化だからである。客となって薄暗い娼館の一室のベッドに腰掛け、手を取り寄り添いながら束の間の会話を楽しむだけが、彼女との関係の全てではないように、卓越の文化の演者/観客の関係性とは異なる、生きられる文化の関係性を実現させたいと思うからだ。が、それはアドルノが結果的に陥ってしまっている偏見、彼がお気に入りの新ウィーン楽派(芸術)を持ち上げ、高度に商品化している軽音楽(大衆文化)を蔑むという偏見、深窓の純潔なる乙女を崇拝し、売女を軽蔑することとは全く別のことである。
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荒井賢 (Ken Arai)

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