泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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補足

 ちょうどいい、きはむさんの言葉があったのでちょっと補足しておく。

『積極的自由ではなく消極的自由を、権力の奪取よりも脱権力、逸脱の自由をこそ求める。それはわかる。でも今更それじゃダメだ。悪いけど、現状認識が甘い。逸脱とか祝祭とかシステムに風穴とか何かそんなんのダメさを、改めて近いうちにまとめときたいなと思うけれど、とりあえず今日は、たぶんその「逸脱の自由」とやらは許されますよ、とだけ言っておく。これからのシステムはそういう逸脱をどんどん許容していく方向に行くだろう。逸脱したい?、ああ、どうぞご自由に。ま、そのかわり逸脱した先に何にも無いですし、逸脱者まとめて圧し潰されるだけですけどねーっ、てなもん。そういう現状認識があるから、逸脱的なものを防いでいこう、社会に包摂させよう、コミットさせよう、という方向の戦略を立てる人がいるのだから。こう批判している私も辛いのです。わかってくれ。』

 逸脱するものに対する、きはむさんの冷ややかさはちょっと気になるところだが、それ以前に僕がこれを読んでおかしいな、と思うところは、「逸脱の自由」を認めると言いながら、現実的には逸脱的なものを防いでいこう、っていう発想だ。これが内田さんとか、再帰派の考えるところだってことなんだろうが、これはあってはならないと僕は思うのだ。もっともらしく聞こえるけど、これじゃあ未来の解放のために現在の抑圧を正当化することでしかないと思う。将来に認められるのであれば、いまこの瞬間にすでに認められていないとウソだと思う。で、何度も書くわけだけど、脱権力とか逸脱ってのは社会の外部へ出ることではないし、しっかりと社会に包摂され、コミットしているんであって………ただ政治へのアプローチの仕方が違うだけなのだ。そのへんのところが、きはむさんとか再帰派の方々はわかってないんじゃないだろうか。近代を選び直すって言うのがどういう意味合いで言われているのかわからないけど、どうもきはむさんの文を読むかぎりでは、近代政治の枠組み(議会制民主主義など)をはずれる政治のアプローチ(ミクロな政治)を無視、または黙殺する(それによって逸脱者から社会をを浄化する)ことを意味してるんじゃないかと思いたくもなってくる。だから、きはむさんは「これからのシステムはそういう逸脱をどんどん許容していく方向に行くだろう」っていうんだけど、僕は全く反対の見込みをこの戦略から導きだしてしまう。つまり未来における逸脱の自由の名の下に、現実的な逸脱行為の抑圧、弾圧がおこなわれる、という見込みだ。きっと資本主義システムにとって実に都合のいい戦略として重宝されるんじゃないだろうか。だいたい冗談にも「批判している私もつらいのです。わかってくれ。」なんて言わなきゃならない時点で、早々にこの戦略を見限っちまったほうがいいと思うんだけど、どうだろう。

Comments
 
araikenさん、お久しぶりです。きはむさんの批判文、私も読みました。これについては荒井さんがすでにご自身で答えている以上、蒸し返す必要もないのかもしれませんが、あえてコメントしてみます。本来これはきはむさんのブログに書くべきかもしれませんが(ご意見があれば、きはむさんもどうぞ議論に参加してください)。
私から見て、まず問題と思えるのは、きはむさんが最初に立てている「一群の思想傾向をまとめて」の〈祝祭・逸脱派〉と〈再帰・統合派〉の単純な二分割です。かりにこの分類を受け入れるにしても、例えば宮台氏と内田氏の社会学的理論水準には大いに差があるわけです。極端かもしれませんが、「右翼」と「左翼」のどちらが優秀か、という議論が不毛であるように、個々の論者・論点をではなく、「思想的派閥」を一方的に仮想してその優劣を解く、というのは、いささか乱暴ではないでしょうか。
それに、荒井氏本人の言説を問題視するならともかく、きはむ氏が荒井氏と「かなりの親和性をもつ」とか「賛同しやすい」とする言説を取り上げて論じていく、というのは、議論の仕方としてあまりフェアではないように感じるのです。
やはり、批判たるものは、相手どる論者の言説から出発するのが筋ではないでしょうか。
また、「逸脱/統合」という対立自体も、そう単純ではないと思えます。ある意味で、これは社会において表裏一体の動きとも言えるのではないでしょうか。例えば歴史上もっとも強力に社会を統合化・一体化したのは全体主義社会ですが、この統合化は強制収容所への逸脱者への〈排除〉を代償とするものでした。この場合、逸脱者の烙印は、国家装置等によって恣意的に行われうるわけです。また、フーコーが指摘するように、そもそも近代社会の成立は、〈狂人〉をそれとして名指し、隔離することによって成り立ったことは周知のとおりです。
問題は要するに、単なる「統合か逸脱か」ではなく、いかなる仕方・様態で〈逸脱〉が許容されるべきか、あるいは逆に、いかなる形での〈統合〉が許容されるべきか、という点ではないでしょうか。
荒井さんにしても、まさか「引きこもり」や「ニート」が自由であるためには、最後には飢えて死んでも仕方ない、などと言っているわけではないでしょう。問題なのは、内田氏(宮台氏は知りませんが)の説く〈再統合〉なるものが、結局のところ、学校や企業における価値観をまるごと温存しているように見える、という点でしょう。つまり、生きていくためには「親からのやらずぶったくり」をやめて〈社会の生産性〉に貢献し、〈夢〉を捨てて〈労働という名の贈与〉に徹するサラリーマンたるべし、ということです。しかし、こうした言い方は、そもそもが〈多様性の抑圧〉を端的に肯定することではないのか。私は、荒井さんの内田氏への怒りをこのように解釈しています。
〈逸脱派〉の主張は具体性に欠ける、というきはむさんの批判は私にもよく分ります。しかし、単に〈折り込ずみ〉とか、〈無自覚な新自由主義〉という言い方でこれを切り捨てるだけであれば、それこそ建設的な議論は生まれないように思えます。
ところで、荒井さんも引用されていた一節を見る限り、きはむさんもまた、「オーウェル=フーコー的不可視の権力」に対して危機意識をお持ちである点では、〈逸脱派〉と同じであるように見うけられます。だとすれば、〈再統合派〉もまた、こうしたミクロ権力からどのように逃走=闘争するか、という問いを突きつけられているのではないでしょうか。私には、「正しいのは逸脱派か、統合派か」といったセクト的対立を強調することよりも、誰であれ、こうした「不可視の権力装置」に対していかなる抵抗が可能か、ということを〈具体的に〉思考することのほうがより重要であるように思えます。
 
Gilさん、私の目をも覚ましてくれるようなコメントありがとうございます。
>個々の論者・論点をではなく、「思想的派閥」を一方的に仮想してその優劣を解く、というのは、いささか乱暴ではないでしょうか。
………きはむさんが言ってる「逸脱派」にしても(当然私はそれを擁護する立場ですが)いろいろあって、ちょっと困った人たちもいるだろうことを考えると、きはむさんのような批判も「確かに」と思わされる面もありますね。一昔前、スキゾ・キッズなんて言われてたのは、ひょっとするとそういう人たちだったかも知れません。
それ以前に私はわからないことが多すぎて………議論をする以上、最低でも押さえておかねばならない知識の不足を、皆さんの語り方を見て感じてる次第です。勉強せねば!
 
荒井さん、さっそくのレスありがとうございます。きのう長々と書いたばかりで恐縮ですが、すこし補足させてください。
昨日述べたことのくり返しになりますが、近代社会、またその鬼子である全体主義社会にあっては、〈社会的統合〉の運動は、まさしく狂人や浮浪者、禁治産者、少数民族といった「逸脱者たち」の排除・隔離・監禁と同時に生じています。もっと言えば、この〈統合〉と〈排除〉はそれぞれ別の運動ではなく、表裏一体だったのではないでしょうか。こうした歴史的教訓を踏まえつつ、「逸脱的なものを防いでいこう、社会に包摂しよう、コミットさせよう」というスローガンに関しても、慎重な吟味が必要だと思われるのです。まさかきはむさんも、収容所や病院やゲットーに排除・隔離する、といった形での、逸脱者たちの〈再統合〉が望ましい、とはおっしゃらないのではないでしょうか。どのような形で、彼らの最低限の社会的生存権と自由を担保し、かつその多様性を可能な限り肯定して行くのか。これこそが課題なのではないでしょうか。
こうした課題に具体的な形で答えることは、むろん大変むずかしいでしょう。いわゆる〈逸脱派〉の論客たちも、これに明確な答えは用意できないかもしれません。しかし、〈再統合派〉もまた、これについて十分に答えていない点では五十歩百歩であると思えるのです。本当に〈排除なき再統合〉の具体的ビジョンを彼らが提示できるのであれば、少なくとも私は、その陣営に組してもいいと思っています(まあ、「労働は贈与である」などと、端的に間違ったことを言っているレベルでは到底無理でしょうが)。しかし、性急で粗雑な「再統合化」の動きが、別の形での排除や隔離、抑圧をもたらすものであるとすれば、これには断固抵抗すべきであると思えるのです
以上のような意味あいにおいて、私には「統合すべきか、逸脱すべきか」という問題の立て方はいささか抽象的であり、ことの本質を外しているように思われるのです。
 
そうですね。私もそう思います。ただ、絶対に気をつけなければいけないのは最後の「性急で粗雑な「再統合化」の動きが、別の形での排除や隔離、抑圧をもたらすものであるとすれば、これには断固抵抗すべきである」ってところです。つまり、自由や多様性みたいなことは、未来のことであるとともに、いま現在の瞬間の問題でもあるわけです。未来と現在、目的と手段にズレや矛盾のない戦略でなければならない。自由のための弾圧、平和のための戦争、みたいなことがあっていいわけがないですから。内田さんの言葉の中には些細なことのように思えますが、明らかにこの「ズレ」が露呈しています。これは見過ごしてはならないと思うわけです。
 
すぐうえのaraikenさんのコメントに横槍です。主旨には賛成なのですが、マイナーな点についてちょっと。
>未来と現在、目的と手段にズレや矛盾のない戦略
なんてものはありません。
40過ぎてすでに人生に失敗してしまったオジサンは息子に将来からみて間違ったことになるとしても、今したいことをしていって欲しいと思いますし、自分も残りの人生はそういう生き方に近付けたいと思います。将来ことはわからんけど、わからん恐怖も自由の一部だと思います。そして、わからん恐怖を麻痺させるのがシステムであったり、人生設計という名の戦略なのではないのかと思います。このブログをそういう思いと重ねて読んでいます。
「性急で粗雑な「再統合化」の動きが、別の形での排除や隔離、抑圧をもたらすものであるとすれば、これには断固抵抗すべきである」同感ですが、必要なのは戦略ではなく、「はあはあいってる感性的主体」((c)松尾匡@久留米大学)である自分に気づくことなのでないでしょうか。
いきなり、通りがかりで、なんかわけわからんけど、araikenさんなら汲んでいただけるかと。
 
osakaecoさん、はじめまして。どこまでosakaecoさんの文意を汲み取れているのかわかりませんが、きはむさんのコメント欄に書き込んでいたことは、まさに私の考えていることです。きはむさんが、逸脱者に関してまるで政治性のない存在であるかのように考えているように思えたので、あえて私は戦略性、目的性を強調しましたが、そもそも生きることは究極的には無目的であるわけで、そういう意味では戦略的であることは、本意ではないかもしれませんね。乱暴な言い方であると自覚しています。かといって、何も考えていないのではなく、やはり生きる上で意識的にではないにしても、何らかの選択や判断があると思うのです。つまり、私が注意を促したいのは「はあはあいってる感性的主体」(ちょっとこれわからないのですが……笑)である自分に気づくってことのなかにある一見わかりにくいけどポジティヴな政治性、ってことになると思いますが、どう思われるでしょうか?
 
arakikenさんがいいたかったことは目的性、戦略性というより、意識性なような気がします。(あくまで私の語感に基づいてですが。)多分、私なんかより、akakikenさんの領分なのでしょうが、頭と関係ないとこから出発している意識ってあるんだと思います。それは主体的で、選択もし、もしかしたら戦略的かもしれません。でも普通、「意識的」という言葉でいいあらわそうとすることの大部分は「頭で考えている」という意味であって、その意味でいえば、今いった意味での「意識」は無意識ということになってしまう。きむはさんの要点は「内田と宮台は頭をつかっているが、逸脱派は使っていない、つまり意識的でない」ということになるのでしょう。
だから、ふつう、頭をつかうことと意識的というのを同一視しがちなのですが、本当は、
頭を使っていて、意識的である。
頭を使っていて、意識的でない。
頭を使っていなくて、意識的である。
頭を使っていなくて、意識的でない。
の4通りがあるわけです。
私がaraikenさんにくいついたのも、戦略性という言葉に勝手に「頭を大事にする」という意味を読み込んだのです。
 
なるほど確かに、頭というより身体が何かを語っているという感じはあります。それはそれでひとつの知であり、政治であり得るわけですね。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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