泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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終わりなき祭り、果てなき逸脱

 きはむさんがまたあらためて疑問を投げかけてくれた。かなりつっこんで僕の書いたものを読みこみ真剣な考察の対象にしてくれていることは、お互いの立場は違うとはいえ、僕には逆にちょっとくすぐったい。
 きはむさんの読みは概ね的確だと思われ、引用しているDJ WATERR(誰?)とかドゥルーズ・ガタリ関連の文章と僕の考えの親和性についても間違いないと思う。ただ、白状すると僕自身はドゥルーズも最近流行のネグリも実際にはほとんど読んだことがない。間接的に影響を受けたり、断片的な発言を聞きかじっているため似た考えを持っていると勝手に想像しているのであって、僕と例えばドゥルーズを一緒くたにして「祝祭・逸脱派」にまとめてしまうと、ドゥルーズなんかに詳しい人たちが怒ってしまうかもしれない(笑)。だから、きはむさんは「祝祭・逸脱派」というくくりで問題にしたいようだが、不勉強者の僕には「祝祭・逸脱派」の資格できはむさんに答えることはできないと思う。また、宮台さんや「再帰・統合派」についてもしかり。だから、ここでは僕個人が、きはむさんの文章を読んで思うところを答えることでご容赦願いたい。

 きはむさんが言ってるのは、ただ「祭り」だ「逸脱」だ、って言ってるだけじゃだめで、それに変わる具体的な代替案がなければそんな議論は不毛じゃないかと、「祝祭」だなんて言いいだす気持ちはわかるけど、内田さんや宮台さんを含む「再帰・統合派」たちは、そういう「祝祭・逸脱派」のメリット、デメリットを押さえた上でそれを乗り越えた議論をしているのであって、僕が噛み付いてるようなやり方は意味ないですよ、ってことを言いたいんだと思うんだけど………。
 きはむさん自身や「再帰・統合派」が、それではどういう具体的な代替案を持ってるのか、僕は全く知らないので、僕にできるのはきはむさんが「祝祭、逸脱」の戦略にたいして抱いている誤解を指摘することだ。

 どうも祝祭的な逸脱行為というものが、きはむさんにとっては政治の欠如でしかないようで、本来祭りの後に来るべき具体的な変革こそが真摯な政治である……そう考えているふしがある。真面目で実践的な、きはむさんの抱くのビジョンに対して、祝祭や逸脱なんてものは無力かつ無意味なお遊びにすぎないってことのようだ。
 だが、「祝祭・逸脱派」の主張というのは、そのような祝祭的な逸脱行為が具体的なな政治的変革(わからないけど、具体的な制度や政策の変更のようなこと=マクロな政治の必要性を、きはむさんは考えているとしよう)に劣らず必要なミクロの政治なのであり、そのようなミクロの政治を日常生活の中で戦略的に行っていこう、ということなのだ。逆にもし「再帰・統合派」の方々や、きはむさんが具体的なビジョンによって構想されるマクロな変革さえあれば事足りる思っているとしたら、それでは片手落ちだと僕は考える。

 ドゥルーズやガタリなんかも含め「祝祭・逸脱派」のやってることは(たぶん)、自分の生を実験台にして、日常生活の中に侵入しているミクロな資本主義的権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きよう、ってことだ。そしてそのような全く別の形の生を提示することで、資本主義的に組織され、それによって資本主義自体を支える役割を担ってしまっている人々の欲望の変形を触発し、変革の筋道を探ろうってことだろう。
 なぜそのような戦略が選ばれなければならないのかと言えば、例えば社会主義国家は、平等な搾取なき社会を目指して行われたドラスティックな変革だったわけだが、国民や彼らを指導する党の意識の中に古くさいブルジョワ的、伝統的な「排除」の構造を維持したままであったため、現実の社会主義は惨憺たる結末を迎えてしまった。つまり、いくら制度に大手術を施したところで、それを支える人間の意識(欲望)が変革されていなければ、制度はうまく機能しないどころか、抑圧的に働きかねない。つまりマクロな政治的変革は、ミクロな意識の変革にささえられていないと意味がない、という認識が、きはむさんのいうところのポストモダン系左翼、「祝祭・逸脱派」の問題意識だということになるだろう。
 何度も書いてきたことだけど、資本主義社会に生きてるわれわれの意識が、業績主義イデオロギーや消費社会のコマーシャリズムに没入しているかぎり、システムだけをいじくっっても、逆にダメだろうってことだ。
 だから、祝祭的な逸脱した生を営む人たちに、変革のビジョンが欠如してるってのは全くの誤解で、逸脱的な生は明確なビジョンに従って営まれているのだ。ただ、具体的変革を求めるマクロな政治とアプローチの仕方が違うにすぎない。

 それに、きはむさんの文を読んでると、祝祭や逸脱が一過性のドンチャン騒ぎみたいに描かれてるけど、それもひどい勘違いで、資本主義システムに反抗することは、システムの側から見ると逸脱であり、異物化であり、前近代の社会において「祭り」が担っていた役割を果たすものになるだろう………つまり、逸脱なんていっても実際に彼らがおこなっているのは、(遊び呆けてるわけではなくて)目的的に遂行される闘争なんだけど、資本主義が生産を価値としている以上、それに根本的なやり方で逆らうことは結果的に非生産的で無目的な生と言う意味合いを持つ活動になるだろう、ってことです。「祭りだ!祭りだ!」って書いてきたからリオのカーニバルみたいなの想像してしまうんだろうけど(ただ、実際にはいろんなやり方があるわけで、怠惰な生活のスタイルをとってみたり、そういったお祭り的な瞬間や空間を演出するってのも、もちろん「あり」だと思う)、問題なのはそういった活動が反資本主義的なロジックを根底に持っているかであって、少なくとも僕は、資本主義社会を牛耳っている生産の論理に反抗する存在や生き方を、象徴的に「祭り」という言い方で表現したかったわけだ。
 だから問題なのは上にも書いた通り、自分の生を実験台にして、日常生活の中に侵入しているミクロな権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きるということであって(基本的には孤独な営みだ)、それは自分の命が尽きるまで、終わることのない「祭り=政治」(まつりごと)なわけです。

 だからといって、マクロ政治的変革の必要がないと思ってるわけではなくて、明らかに抑圧的な制度は当然変えるべきだ。だが、ある制度が抑圧的であることが世の中に認知されるためには、そもそも抑圧の現場でのミクロな異議申し立ての積み重ねがなくてはならなかったはずだろう。つまり「祝祭・逸脱派」の戦略はそういう抵抗の運動を引き起こし、増幅させるという面を持ってるわけで、しっかりと具体的な変革に向けられた活動だってことをおわかりいただけるんじゃないだろうか。
 それだけに、そのようなミクロな闘争をすっとばして行われる政策立案みたいなものはあってはならないだろうし、僕らは常にマクロな意味での政治に向き合うのと同じぐらいの関心を持って、日常生活に侵入している資本主義の権力作用や排除に注意を払い続ける必要があると思うのだ。それこそ、両親がそろそろ結婚しろとうるさいとか、彼女がブランド品に目がないとか、学校の先生がオレを不良だと思い込んでて、変な目で見てる、とかいう日常的なレベルに、まず政治を感じるべきだと………。
 そんなわけだから、僕はたまたまWeb上に見つけた内田さんの「排除」丸出しの文章に、噛み付いてみたってわけで、それは愚痴でも八つ当たりなんてものでもなくて、僕なりのミクロの闘争だったのだ。確かに内田さんは痛くも痒くもないんだろうが、僕は全く無意味なことだったとは思っていない。
 だって内田さんの文章は、多様性をうたったマクロな提言を、自らのミクロな「排除」の上でおこなってたわけで、そのヘッポコさは社会主義どころかもう北朝鮮のチェチェ思想並みですから。申し訳ないけど、内田さんのあの「おじさん的思考」が「祝祭・逸脱派」の欠陥を踏まえた上での二次的な議論だなんて言うとしたら、片腹が痛いのはこっちのほうですよ。それだけに、そんな内田さんが目の前で犯している「排除」をスルーし、そんなことには興味がないなんて言い切って、その背後にある問題意識の埋め込みだなんてものにすっ飛んでいってしまえる、きはむさんの政治的、人間的なセンスを逆に僕は疑いたくなってしまいます。

 ちょっと、きはむさんの新自由主義についての分析を引かせてもらうけど……

『新自由主義と個的社会の性格を兼ね備えたメタ・ユートピアは、民間活力の重視や個人の多様な権利・価値の承認によって、表面上は著しく自由で快適な世界をもたらすであろう。
しかし、その「自由」は、それこそオーウェル=フーコー的権力によって、監視・管理を受け、丁寧に整備・配慮された果実である。ここで過去の福祉国家時代と異なるのは、その管理権力は表面上の自由の背後に隠れたそれこそ「メタ」の存在として不可視化されてしまう。まさしくパノプティコンである。ここではメタ・ユートピアの基盤をなす価値、基底的価値に賛同しない者はそもそも排除されてしまうであろうことも重要である。』


 ここで、きはむさんが言いたいことはわかる。で、このような新自由主義の現状を「祝祭・逸脱派」は理解できていないってきはむさんは言うんだけど、読めば読むほど、ここに示されている思考の形態は内田さんの思考そのものじゃないかって思えてしまう。
 つまり、表面上の多様性(内田さんは相互承認に基づく、取り替えのきかない役割の多様性なんて言ってた)を、根源的な排除が支えている………学びから逃走する若者ってのは間違いなく資本主義の基底的価値に賛同しない者なのであり、内田さんはここで明らかに勤勉でない存在、怠惰、無為、享楽といった非生産的価値を排除しているわけだ。
 「祝祭・逸脱派」の戦略っていうのは、(きはむさんはそう考えてるみたいだけど)この内田チックなメタ・ユートピアの表面上の自由や多様性の中で戯れることではなくて、隠されている根源的な排除を暴きだすことにある。つまり偽りの多様性や表面的な自由にとらわれた人々の意識を覚醒させ、欲望の形を変えるために、排除されている「外部」の価値(非生産的価値)を「内部」へ引き込むことなのであり(くれぐれも言っておくけど、これは脱社会的だとか、社会の「外部」に出るなんてことではありません。「外部」の視点を利用した「内部」的な活動です。)、だからこそ僕も内田さんのこの排除を大いに問題視するわけだ。

 きはむさんのことだから、こういった「意識の覚醒」みたいな戦略が効果を持つのか示されなければならない、なんていうかもしれないけど、そりゃ、やってみなければわからないですよ。何だか「祝祭・逸脱派」の道の先には暗澹たる未来が待ち受けてるみたいなこと書いてるけど、それを言ったら、きはむさんや「再帰・統合派」の描く具体的なビジョンだってどんな結果が出るかわかりゃしないと思うし………。はっきり言えるのは少なくとも僕の場合は、実際そのように逸脱的に生きる人と交わって自分の欲望を作り変えた、そしてそのような人たちは世の中に少なからずいるらしい、ってことぐらいだ。ま、きはむさんによれば僕こそが新自由主義のバックパサーであるらしいので、欲望を作り替えたと思い込んでるだけなのかもしれないけど(笑)。
 それに、また負け惜しみだとか敗北宣言だと言われてしまうのを恐れずに繰り返すけど、この「祝祭・逸脱派」の変革の戦略自体、僕にはスッキリと筋の通ったものに思えるが、むしろ大切なのは、社会の変革という目的そのものよりも、この戦略においては具体的な社会の変革というプログラムと、自己の特異性/固有性の追求との間に矛盾がないということだ。つまり多様性はすでに闘争の中に、つまり現在のこの瞬間の中に現れている、ということだ。
 それだけに、具体的な変革という結果がついて来ようがくるまいが、この人の試みが失敗だったとか、無意味であったということにはならない。逆にたとえ制度を変革するという結果を出したとしても、制度そのものはすぐに古び、新たな排除を生み出すかもしれない。そういう意味では、スタティックな理想の社会なんてないわけだろう。じゃあ、自由や多様性の息づく共同性なんてどこにあるんだ、ってことになるけど、結局それって(未来のある時点に出現するのではなくて)挑戦し、闘争し、他者と交流するその瞬間や状況の中に、現れてくるものでしかないのではないだろうか。
 だから、僕はこの戦略の価値を結果で判断するのではなく、闘争への意志において………ベタな言い方で申し訳ないが、試み、挑戦する意志で判断するべきだと思っている。こういう言い方をシステム側に足場をおいてる人は、居直りだとか、自足だとかって鼻で笑うんだろうけどね。どうぞご勝手に!

 ただし、きはむさんも言ってる通り、この戦略を選択したことによる結果は保証されようもない、何があっても誰にもにも文句は言えない。つまりこの道を選ぶということは、自分を賭け(実験)に投げ込むということであり、危険への覚悟を要求するものだ。だから、人にこの戦略を無理強いすることはできない。僕にできるのは「誘惑」することぐらいだろうか………。こっちの水は、甘くないけど、ゾッとするほどおもしろいよ、といった具合に。無理矢理教え込んだり、力ずくで説得したりなんてできないと思うのだ。誘惑し、説明する、あとは人々にそれぞれ判断してもらう他はない。基本的には、個々の勇気ある決断に期待する以外に自由や変革への道などあり得ないと思うからだ。
 ふと思ったのだけれど、きはむさんや「再帰・統合派」の人たちって、政治を社会学の延長上にある極めて真面目な実践と考えてるのじゃないだろうか。いや、真面目が悪いってことじゃないのだけど、僕にとって、そしてたぶん「祝祭・逸脱派」の人にとって、政治は博打なんだと思う。自分の生を掛け金にした博打…………つまり、「祝祭・逸脱派」の主張を乱暴にまとめると、自由や多様性は危険な博打を打たずしてつかみ取ることはできない、ってことになると思う。
 どうだろう? 少しは誤解が解けたことを期待しているが………それともひょっとしてさらに疑惑を深めてしまっただろうか? (補足あり)

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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