泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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コミュニケーション・スキル2

 「そもそも対人関係・コミュニケーションを「能力」としてとらえるなと言いたいのです。「能力」「○○力」ととらえた瞬間に単純な物差しでの競争が始まるからです。」

 「筆者は現代の職業に直結することだけを「現代社会を乗り切ってゆく」基準にするのは問題だと考える(教育でも就労支援でも、政府の若年支援はこうした長年の考えから脱却すべきではないか)。また、現代のビジネスや恋愛で言われている「対人能力」とやらの実態は、他者と対話しながら相互変化するのではなく、他者を自己の領域に巻き込みやりこめる傲慢さであることが多い。また周囲の「空気」「ノリ」を過剰に読んで合わせようとする神経戦である事も多い。それらが「能力」という数値やハウツーになっているに過ぎず、「コミュニケーション」とは言えないだろう。そのため筆者は「対人能力」と「コミュニケーション」を分けて考えたい。」
目に映る21世紀さん)

 なるほど、と思った。以前、僕は「コミュニケーション能力(スキル)」っていう言い方が面白くないと書いたことがあった。この言い方では「コミュニケーション」は処世術………つまりサバイバルの技術ってことになる。でも、僕にとって「コミュニケーション」って言葉から思い出されるのは、バタイユの言うところの「コミュニカシオン(交流)」であり、それは無目的なエネルギーの消尽にあたるのであって、サバイバル=生き延びる(個体の生存)を目的にするようなものとは思えなかったのだ。
 どうやら「コミュニケーション能力」という言い方のもつ「イヤ〜な感じ」は、個人を競争状態におくことでシステムに従属させようとする新自由主義的な文脈から発せられた言葉であるというところに原因がある、というのは間違いなさそうだ。「対人能力」を総動員してサバイバル競争に参加すべきだ!………社会学者が「コミュニケーション能力」と言うとき、みんな「やる気」を持って働かないと競争に敗れ去って落ちぶれてしまうんだぜ、と暗に脅しているのである。………放っておいてはくれないのである。「やる気」のない奴が増えれば資本主義社会は順調に回転しなくなってしまう。だから「格差」を云々して不安を煽るのだ。
 「コミュニケーション」を処世術的な「対人能力」なんてものに矮小化する傾向には抵抗しなければならない。「コミュニケーション」はサバイバルへと収斂することのない、非生産的な活動であるはずだ。むしろ一見無意味でバカバカしくネガティブに評価されがちな事態の中にこそ僕は「コミュニケーション」を見いだす。
 不登校とか「ひきこもり」が素晴らしいなんて言う気はサラサラないのだが、彼らのやってることは間違いなく、ちょっと凄みのある「コミュニケーション」以外のなんであろうか。それは「コミュニケーション」の「失調」ではなく、「コミュニケーション能力」の「欠如」でもない。つまりこれらの欠如態によるもの言いの背後にあるのは、ある種のイデオロギー(価値判断)を強引に押し付けてくる権力作用なのである。………こういうまやかしの言葉たちには災いあれ!

 トラックバック <新しい社会運動>の可能性:?試案・ほんとうに<あたらし.. 目に映る21世紀

Comments
 
araikenさん、こんにちわ。〈コミュニケーション〉の語に関する問題提起、実に興味深く読ませていただきました。全く、この語ほど濫用されているわりに意味の分らない語もありませんね。おっしゃるように、最近の一般の語法では、これは「処世術的な対人能力」や、「他者を自己の領域に巻き込みやり込める」営業能力として使われているようです。
しかし、二流の言語学者も似たようなもので、彼らにとってこれは〈意味伝達〉の行為であり、あるメッセージを何らかの媒体にのせて一方から他方に受け渡す操作にすぎません。
つまり、こうした言い方の背後には、〈コミュニケーション〉とは何らかの有効性ないし功利性をもつべきである、という暗黙の前提があるわけです。しかし、ラテン語のcommunを語幹としていることからもわかるように、この語は〈伝達〉という以前に、「共有」とか「一体化」という意味を持つものでもあるはずです。そして、現在考えるべきは、まさしくテクノロジーの加速度的発達によるコミュニケーション手段の進歩にもかかわらず、人間同士の〈共同体=共同性〉communityはますます成立が困難になっている、という逆説的な事態ではないでしょうか。いわゆる「前近代的」な社会での「非功利主義的=祝祭的コミュニケーション」の分析を通じてこの問題を深く考えたのが、まさしくバタイユだったのだと思います。「コミュニケーションの危機」という主題は、現代思想の最も重要なテーマのひとつであると思います。
また他方では、〈優しい波動〉といったたぐいの安直なセンチメンタリズムに頼ってもダメでしょうね。こうしたナイーブな「心情の共同性」に回帰することが不可能である、という冷徹な認識から出発しなければ、この危機は決して乗り越えられないのではないでしょうか。
 
す、すごい……。あ、Gilさん、こんにちは。
お見事です。私の言うべきことはもう何もない、というか逆に教えを請うべきじゃないかという感じです(笑)。………新たな論客の登場か!?
………やはり「存在」は、即「コミュニケーション」なのであって、コミュニケーションが小手先のテクニックの問題に貶めてしまっているというあたりが、「危機」の現れなのですよね。私たちの目指さなければならないのは、功利性を越えた祝祭的な、ときには血なまぐさくすらあるコミュニケーションの働きを救い出すとともに、現実の中にそのようなコミュニケーションの場を創出することだと考えています。
 
どうも、お褒めにあずかって光栄です。araiさんの問題提起が、たまたまぼくが前から考えていたことと非常に近いものだったので、よろこんで書かせていただきました。
「存在は、則コミュニケーションである」というのは、まさしくバタイユ思想の本質を言い当てていると思います。通俗言語学にとって「コミュニケーション」は、発信者Aから受信者Bに媒体(言語)を通じてメッセージ(情報、意味内容)が送り届けられることを意味します。しかしバタイユ的「コミュニカシオン」とは、むしろこうしたAとかBとかいう存在の個別性が、ある共通の運動の中で見失われるような局面を問題にしているのだと思います。そこでは、情報や意味内容の伝達ということは問題になりません。その意味でバタイユの翻訳者たちが、これを「伝達」ではなく「交流」や「交感」と訳したのは正しいと思います。
バタイユにとって、このコミュニカシオンの典型的な例は、例えば〈笑い〉の現象にみられるものです。
「何かばかげたことを示す言葉、あるいは粗忽な仕草を見聞きして一群の人々が笑うならば、その人々のうちに強烈なコミュニカシオンが通過する。(略)彼らの間にはもはや笑いの続く限り障壁はない。彼らは二つの波と同じくもはや分離されていない。」(『内的体験』)
こうした、個体を越えた無名の暴力的運動としてバタイユはコミュニカシオンを考えており、またそこから出発してバタイユは人間の共同体=共同性を根本的に問いなおそうとしたのだ、と思います。そして、前近代的社会に参照軸を求めながらも、「国家」や「民族」、「血縁」といったものは彼にとって、ある閉じた個別性をもつものであるがゆえに批判すべき対象だったのだ、と思われます。
ご参考になれば幸いです。
 
Gilさん、ありがとうございます。自分がボンヤリと感じていたことを、裏書きされたようで心強いです。私の場合、岡本太郎氏の絵や書物から影響を受け、モノを考え始めたので、岡本氏がパリ時代に親しくつきあっていたというバタイユの思想に惹き付けられていったという経緯があり、それがいまだに自分の思考のベースになっています。したがって最近読んでいるマルクス関係のものやシチュアシオニストなども、バタイユ的な視点から解釈してしまうわけです。実際、シュルレアリスムからアウトノミアまで、さらに最近のマルチチュード論の中にも、近代における「共同性」の新しい形の探求というバタイユ的なテーマが脈々と流れているのを感じます。
いい機会ですので、これからもバタイユを睨みながらのエントリーをあげてゆきますので、お時間があればコメント下さい。また、『読書会』のほうにお立ち寄りいただければ幸いです。
 
こちらこそありがとうございます。
決してお世辞ではなく、araiさんは直感的にバタイユ思想を深く理解されていると思います。おっしゃる通り、バタイユの共同体論は、さまざまな思想や実践の流れとクロスしうるものであると思いますし、そう読むことこそが彼の思想を現代に生かすことになるのではないでしょうか。
なお、このテーマに関しては、バタイユの友人であったブランショの『明かしえぬ共同体』(たしかちくま学芸文庫で出てます)を読まれることをお勧めします。少々小難しい本ですが。この中でブランショは、バタイユ思想を68年の「五月革命」の出来事に引きつけており、彼の言うコミュニカシオンから出発しつつ、コミュニスムやコミュニティの問題を論じています。また最近では、ジャン・リュック・ナンシーやアガンベンといった人たちも、バタイユ的な思考を批判的に継承しつつ政治を論じているようです。
ぜひぜひ、今後ともまたバタイユ的なテーマに関して挑発してくださることを期待しています。
 
トラックバック頂き、ありがとうございました。
哲学には疎いので勉強させていただきます。今後もよろしくお願いします!
 
>Gilさん。
もちろんブランショの名前は知っていますが、『明かしえぬ共同体』というのはそのような本でしたか………。68年と絡めてあるというのなら、読まないわけにはゆきますまい(笑)。もっとも読まねばならない本が山のようにたまってますので、すぐにとはゆかないと思いますが………。
 
ナインさん、はじめまして。こちらこそ勉強になりました。
『対人関係・コミュニケーションを「能力」ととらえた瞬間に単純な物差しでの競争が始まる』………至言ですね。コミュニケーションはそもそも量化したり、比較し、格差を付けたりするような対象ではないはずですから。まさに『魂の労働』へモチベートするための詐術がこの「コミュニケーション能力」という言葉の中にはあると言って間違いないでしょう。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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