泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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何でも自己決定の限界

 仲正昌樹氏の『不自由論』という本を読んだ。「何でも自己決定」の限界……というサブタイトルがついている。軽々しく自己決定って口にするけど、そんな単純な問題じゃないぜ、というテーマで書かれた本だ。
 今まで40年以上も生きてきたわけで、当然自分に関して何らかの決定を下して生きてきたはずなのだが、「自己決定」ということを自分自身で問題にしたことなどないし、それで困ったこともないように思う。だから仲正さんの書いてることにフムフムと頷きながらも何のためにこんなことを問題にしているのかがよくわからない、というのが第一印象。
 面白かったのは、仲正さんのちょっとひねくれたキャラクターと、はじめのほうに出てきたハンナ・アーレントの政治哲学についての議論だった。ギリシャのポリスでの政治活動に人間的な活動の起源を見て取るという風変わりな政治哲学にちょっと面白さを感じた。………アーレントを読んでみたい。
 で、最後にまたまた登場の「マルチチュード」である。「マルチチュード」が何であるのかを仲正さんは………『“何となく”変化を求めている人々の非常に緩い集まりである。その中には、特定のグループが丸ごと入っているかもしれないし、全く自分一人で勝手にやってきた人もいるだろうし、グループとグループの間を渡り歩いている人もいるかもしれない。いろんな人間が集まって、その都度の出会いに応じて、「自己」をめぐる新たな関係性を想像する。そうやって新たに生まれた関係性が、さらに複合的にネットワーク化されていくことによって、”自己”は何となく変容し続けるわけである。』……と書いている。で、仲正さんは「マルチチュード」という考え方が、従来の左翼的「主体」思想から卒業するためのいい契機になるのではないかと、可能性を感じてるようである。
 だけどたぶん僕はもう感覚的に「マルチチュード」が何であるかわかってると思う。仲正さんの言うこともわかるし、それだけに左翼的「主体」思想なんてものとは僕は無縁なのであって、仲正さんが長々と書いてきた「自己決定」の限界、という話題についても「いまさら……」って思ったっていうことだったのじゃないだろうか?

Comments
 
Kenセンセ〜、質問がありまぁ〜す。
自己決定の定義が判りません(T_T;)
子どもが産まれるまで、物事の判断と決定は自分主体ですることが出来ましたが、今となっちゃぁ〜・・・それでも妥協してそれを決定?判断?決断?するからこそ問題も解決する訳で、物事も前に進む訳で・・・結局自分の意と反したことであっても、それを決定する自己がいる訳で・・・
「しょーがねぇなぁ」と思っても、それをすることは自己決定とは言わないのでしょうか?
なんか、全然エントリとは違う方向のコメントですが、とっても素朴に疑問が降って湧きました。
 
うむ、それも含めて自己決定と言うのじゃよ。たぶん……(笑)。
私も考えたことはなかったのですが、つまり最近いろいろなことが自由化して、自己責任とかそういう判断を自分ですることが「自由」なんだ、みたいな時代になってきたってことで、「自己決定」なんてことが問題になってるってことだと思います。だけど、よく考えてみると「自己」って何だとか「主体的」って何だとかいう問題につきあたって、本当にそういう判断って自由なの? ってことをこの本の著者は言いたいんだと思うんですけどね。
確かにそういうギチギチした決定ってあやしいような気がする。不登校だって「選択」したわけじゃないんだぜ! ってことだし………(笑)。
 
センセー、ご教授ありがとうございましたぁ♪
ある意味、ピストル突きつけられて「金よこせ!」って言われた時に、命を差し出すのも金を差し出すのも、結局は自己決定ってことっすよね?
そこに自由はあるのかい?ってことでしょうか?これは極論ではあるでしょうが・・・
そうそう、選択したわけじゃないんだぜ!つーことっす。(爆)
ホントのところは、選択したもしないも判んないじゃないのさ、ってことなんですよね。本人だからって自分のことが何でも判るってもんじゃないですよぉ〜。後日思ったことなんて、思った時の状態でいくらでも変わるんだと思うし、かと言って当時はそんなこと考える余裕なんてないし。
ホント、怪しい怪しい・・・(^^;)
 
araikenさん、チャマさん、こんにちわ。仲正さんの本を読まずに横槍を入れて申し訳ないのですが、かつてサルトルが「人間は自由の刑に処せられている」といったのは、まさにピストルを突きつけられて命を差し出すか金を差し出すかというようなときも、無根拠に決断しなければならないからこそ人間は「自由」である、というような話だったと思います。構造主義は「一切を決定しうる自律的な意識主体」なるものを相対化しましたが、「自由」とか「主体」とかいうことは現在、やはりもういちど考えるべき問題なんだよ、というのが仲正さんの主張なのではないでしょうか?
そういえば、ちょっと前にイラクで人質になったNGOの人たちに自民党の議員らが「自己責任」という言葉を大合唱したことがありましたが、最もこの言葉を口にする資格のない「談合政治家」たちがこういうことをいうので、開いた口がふさがりませんでしたね。まとまりのないコメントですいません。
さきほど、araiさんの本文をよく読まないで書いたのですが、やや的はずれのコメントだったようです。仲正さんは、「主体についてもう一度考えよう」ということよりも、「自己決定」にすべてを帰着させてしまうことの危険を説いているようですね。ただ、いまどき「左翼的主体性思想」を振りまわす教条的な人々もさすがに多くないと思うので、araiさんが「いまさら」と思った、というのはうなずけました。
それにしても、さきほどもちょっと書きましたが、一昔前には「左翼的紋切り型」であった「主体性」とか「自己責任」とかいう言葉を、現在の保守的な論客が自分たちに都合よく使っているのには、皮肉という以上のうそ寒さを感じます。内田氏風に言えば、ニートや引きこもりの人々も、〈自己責任〉や〈主体性〉を身につけよ、ということになるのでしょうか。どうも、「自己」とか「責任」という言葉は今日、ある種の鈍感さを持った人々のみがこだわりなく口に出来る言葉になってしまっているようです。
それはともかく、araiさんの「マルチチュード」論、ぜひ今後とも展開してみてください。
 
Gilさん、コメントありがとうございます。
そうですね、紋切り型の左翼的主体性はあまり聞かなくなりましたが、ポストモダン的な別の形の紋切り型みたいのも生まれてるでしょうから、いずれにせよ「言葉」には注意しなければならないのでしょう。ただ、そのへんのことは僕自身、細かく分析しなくても本能的にわかっていることだよなあ、と感じながら仲正さんの本を読みました。
「自己責任」という言葉のイヤ〜な感じは、この言葉が新自由主義的な政策の中でさかんに語られるようになってきたことに原因がありそうです。まさに労働へ取り組みへの精神論を説く言葉と表裏一体のものってわけです。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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