泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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なぜ私は内田批判をするのか その2

 実は私には若い頃、登校拒否経験者の友達がいました。私たちは今で言う「フリーター」として同じ職場で働いていました。親しくなって彼が登校拒否経験者であることを知り、登校拒否を肯定的に理解するための小さな運動を行っている、という話を聞きました。
 彼に言わせると、まさに学校は(内田さんも見抜いていたように)「選別」の場であり、試験や通知表による量的格差による「競争」の場であって、ある意味非人間的な空間なのだということでした。おおざっぱにいえば登校拒否とは通常考えられているのと違って「怠け」や「サボり」に類するものではなく、一元的な「競争」でしかない学校教育に対する子供ながらの拒否反応なのだ、というのが彼の主張であり、そのような形で登校拒否というものを一般の人にも理解させ、今も周囲の無理解にさらされ精神的に追いつめられた登校拒否の子供たちを肯定的にとらえることで救いたい、と考えていました。まあ、最近話題のフリースクール運動のはしりのようなものでしょう。
 私もはじめはびっくりしましたが、彼の考えや立場を急速に理解し受け入れてゆきました。何より当時16〜17歳ぐらいの若さであったにもかかわらず彼は非常にまじめで、同じ仕事をしていたアルバイトの大学生たちより熱心に仕事もこなしていたし、人間的にも深いように思えました。(大学生たちなんか仕事もサボるし、バイクやツーリングの話ばかりしてるくせして、学歴のない彼や私を明らかに低く見ているのがわかりました。いやバイクに夢中になるのが悪いなどと言う気はありませんが………。)
 彼の「夢」は何よりも登校拒否というものを人々に理解させたいということと共に、一面的で量的な格差のみで人間を理解しないような新しい社会のあり方を構想し、そのような新しい生き方を実践してゆくというところにあり、バブル経済に浮かれ始めていた日本に蔓延する経済的成功の「夢」なんてものとは全く別物でした。まさに彼は内田さんが言うところの「同じ生き方の格差の違い」などに興味を持たず、「生き方の違い」を追求していたのです。つまり「夢」の形は全く新しい形に転換していたということです。
 もう20年も昔の話で、今では彼とも全く会っていないので、現在もそのような「夢」を抱き続け、活動しているのかは知りません。が、少なくとも私の中に彼の存在は生き続けているし、そのような均質的な「競争」の外部の価値観はほとんど私の身体にしみ込んでいます。

 しかし、明らかに彼のような存在は内田さんの立場では、「学び」を降りた者であり、業績主義的価値観の「外部」の価値によって自己を肯定している「ねじれ」て「居直った」存在に該当するはずです。しかし私の実感では、彼のような存在の方がよっぽど人間的であり、むしろ「勝ち誇れる自己肯定」なんて言い方で形容したくなるのはエリートであるはずの大学生たちの方でした。
 それだけに内田さんの言い方が私にはほとんど皮膚感覚として受け入れがたいのです。「学び」を降りた者を十把一絡げにネガティブな存在と見なしていいはずがない。なんでそんなことができるんだろう。それはやはり学校での「競争」を無批判にポジティブなものと見なしているからではないだろうか。内田さん自身がずいぶん鋭く均質的な量的格差を争う「競争」を危険なものとして批判していたにも関わらずに………です。
 もちろん学校での「学び」自体が悪いことだなんて言うつもりもないし、競い合うことが必ずしもマイナスではないと思います。問題なのは試験の点数のような一面的で量的な差異のみによって競争が行われ、子供が格付けされ判断されてしまうことです。秀さんも教員をやっておられるようなのでわかると思いますが、成績が悪くても人間的に魅力のある子供や、成績が良くても薄っぺらい感じの子供、という評価もあるはずです。しかしそのような人間性などによる評価はたぶん、試験の数値に比べてマイナーで、付加的な評価でしかないでしょう。あくまでも学校教育で問題なのは点数による量的格差なのだと思います。
 また、「学び」を降りる者が登校拒否をした私の友達のように真面目な奴なのは例外で、本当に「ねじれ」て居直りを決め込んでるような場合もあるでしょう。「学校の成績だけがすべてじゃない」なんて言い方は巷に流通しているわけで、そういう言葉を利用して開き直り的にいっさいの努力を放棄している子供もいるだろうと思います。いやむしろ「学び」を降りる子供は、ほとんどはそのような子供なのかも知れません。
 しかし「居直り」というのはどういう状態なんだろう………つまりニヒリスティックに古い「夢」(同じ生き方の格差の違いの追求)を打ち砕きはしたが、新しい「夢」の形(生き方の違いの追求)に転換できていない状態にあるってことじゃないでしょうか………「居直り」という言葉や態度にいい印象は持てないのは確かですが、とにもかくにも「居直れる」ということは学校教育を貫通する一面的な支配的価値観………均質的な「競争」に疑惑を抱き始めた証拠です。もし本当に内田さんが均質的な「競争」を批判する立場にいるというのであれば、そのような「居直る」子供たちをも肯定的にとらえて、業績主義的な価値観から完全に身を引き離させ、新しい「夢」の形を創りだすアシストをするという方向でものを考えることもできるはずだと思うのです。
 でも内田さんの文章をどう読んでもそのような発想はないようで、むしろ勉強をしなくなった子供たちを不安視し、「学び」を降りる者は「ねじれ」でしかなく、逆に学校での「競争」はなぜかイノセントなものにとどまっている。私がどうしても納得できないのはこのへんの内田さんの論理なのです。

 とりあえず以上が私が内田さんの言葉に不審感を抱き、「素直」には受け入れられないひとつの理由です。「生き方の違い」を求めるべきだという内田さんの言葉は、その中身を欠いているとしか思えない………。本当の意味で「違う生き方」を内田さんは認めてないと思うからです。
 たとえば、『スピリッツ』療法というエントリーで内田さんは、『NEET、引きこもりなど、将来が決まらないでうじうじしている男性』を治療の対象(つまり病者?)だと見なしてしまっていますが、「生き方の違い」「多様性」を称揚する人だったら、このような見方は許されないのではないでしょうか? 「生き方の多様性」を認めるということは、そのような人たちの生き方をありのまま受け入れ、向かい合うということだと思います。それこそ「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れる」ように、です。それを治療の対象にカテゴライズしてしまうとは………(軽いノリで書いただけかもしれませんが)。本当は内田さんは「一つの生き方」しか認めていないと思う。つまり均質的な競争社会を支える人間の生き方しか認めてないと思います。内田さんの言う多様性は均質的な競争社会を支える機能的な多様性(職業の多様性)でしかないからです。だからこそNEET、引きこもりなどのように、社会を支える機能を担うことのできない人間に対して「病気を治して早く職業に就いて働け!」と言いたくなるのだと思います。本当に生き方の「多様性」を認めるのなら内田さんは「NEETや引きこもりは立派に一つの生き方だ」と言わなくてはいけない………。

 学校教育の競争を勝ち抜き、エリートの道を進んでゆくことを一つの勝利だとするなら、登校拒否経験者である私の友人のような存在はある意味敗者になるのかもしれませんが、私には、彼はその敗者の立場を(秀さんの言い方を借りるなら)見事に逆転し、勝者として生きているように思いました。だけど彼のような存在は内田さんの思想の中でポジティブな位置を占めることはできない………そのような勝者は「ねじれ」ていて「居直り」を決め込んでるだけで内田さんの言うところの「社会的機能」に収まらない存在になってしまうでしょうから………。
 このような私自身の人間経験(登校拒否の友人との出会いの経験)が、内田さんの言葉に対してほとんど肉体的な拒否感を発動させてしまい、秀さんや458masayaさんと内田さんの言葉の「解釈」に大きな食い違いが生ずるひとつの原因なのではないかと考えてみたのですが、いかがでしょうか?
 私は内田さんの人生をまるで知らないので、憶測だけで言わせてもらっちゃうと、内田さんは今まで大きな挫折や落伍者的な位置に陥ったことなく、身近にもそのような社会と人生の矛盾を味わっている人が全くなく、順調に優等生的な道を歩んできた人なのではないでしょうか(いや、もしそうだとして、それはそれで立派なことですが)。それだけに自分が勝ち抜いてきた均質的な「競争」を本気で疑ってみる回路がないんじゃないか………内田さんの論理を追ってゆくと私はそんな想像をしてみたくなるのです。(おわり)

 トラックバック またまた心の理論 〜今度は自分自身に〜 what is my l..

Comments
 
kenさま、ご無沙汰しております。
不勉強者でして、私にはkenさんの記事は難しすぎますぅ〜〜(T_T)
タイのウルトラマンとか、鋼錬とかばかり喜んで読んでいてはダメですよね・・・がんばります。
このエントリはいつもより身近な話題かも・・・ですので、真剣に考えて改めてコメントさせて頂こうと思っていますが、今日はとりいそぎ、ずーっと以前の「イラン日本人人質事件」に端を発した?私の重大事件?をエントリしましたので、トラックバックさせて頂きました。
ヨロシクお願い致します。
 
荒井さん、内田さんって実は哲学の事、あんまり知らないって自分で本に書いてました。内田さんって、私同様、単なる酔っ払いみたいです。ただ、単なる「意見」でもそれが意識的無意識的を問わず「哲学的言説」を用いて権威づけられるとき、それは本当に危険です。大学の先生ともあろうものが「哲学的言説」を用いた以上、哲学のフィールドで責任を負うのは当然です。徹底的にたたいてやってください。
 
そんな内田さんの『寝ながら学べる構造主義』を読書会で私たちは読むことになったわけですね(笑)。でもまあ、牙を剥いて襲いかかるというよりも、謙虚に………というかいい勉強の機会になればベストですね!

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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