泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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コミュニケーション・スキル

 不登校のお子さんがいるチャマさんのブログで、僕がだいぶん昔に書いた文章を取り上げてくれて、なんだかチャマさんの考えを混乱させてしまった(?)ようで、僕も「あれ?」と、ちょっと気になったので自分なりに整理してみようかと思った。コメントすればいいと思ってたんだけど、予想通り長くなってしまったので、エントリーすることにします。問題になってるのはこんなことだ………
 
『………厳密にいうと、「生きること(コミュニケーション)」と、「生き延びること(生存)」とは分けて考えないといけない。』

椅子から飛び上がってしまった(くらいの気持ちだった)。
だって、私がほんの数ヶ月前に学んだことと違うんだしぃ。。。少し前に自分が「ほぉ〜!」と思ったことを『いけない』とされてしまったしぃ。。。
私が学んだこととは、人は生存のために社会が必要で社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠、ということだった。そんなことを今までのエントリーではおテンコモリで書いてきた。
。。。これは捨て置けん!


 まあ、チャマさん自身の不登校についての考えと僕のそれの間に大きな差はないみたいなので、これは単に言葉の問題なんだ、って言っちゃえばそれまでなんだけど、何かちょっとひっかかるものがあった。それはチャマさんに対してじゃなくて、チャマさんがどこかで学んできた『人は生存のために社会が必要で社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠』という考え方に対してだ。
 これ読んで、そりゃその通りだ、って僕も思った。でもよくよく考えてみるとチャマさんの言った通り僕の考えとは正反対なんだ。僕は「コミュニケーションを突き詰めると、生存は脅かされる」というバタイユ的な立場でものを言っている。………それだけに、「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」という言い方がちょっと面白くないのだ。

 そういえば巷の社会学者が、若者論かなんかでそんなことを言ってたような気がする。「コミュニケーション能力」とか「コミュニケーション・スキル」とかって………。だけどコミュニケーションっていうのは、そんな「能力」とか「スキル」なんて問題なんだろうか? つまりこれ、人と付き合うためのテクニックってことだと思うんだけど、それは古い言い方だと「処世術」みたいな言葉に近いものに思える。
 ようするに「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」という言い方って、人が生き延びてゆくためには周りとうまくやってゆくテクニックが必要だ、ってこと以上のことを言ってないんじゃないかって気がする。いや、それが難しいんだ、って言うことなのかもしれないけど………。
 処世術ってことをもっと悪い言葉でいえば、手練手管、とか、口八丁手八丁、なんていうことにもなるし、「生き延びる」…「生き残る」……つまりサバイバルの技術、つまり人を蹴落とし、自分の生存を確保するってことにもつながってゆきそうな気もする………ここで言われてるコミュニケーション能力ってのは、一言でいってしまえば「計算して人と付き合ってゆく」能力や技術ってことじゃないかと思うのだ。でもそのスキルを行使することって難しいことなんだろうか?

 もちろんそういう能力がなければ人は生存できない。僕らもその能力を日々行使している。誰でも明日のこと、将来のことを考え、自分の利益になるように計算して仕事をしたり、周囲の人と付き合ってゆく………てめえの好き勝手にやってたら生きてゆけないからだ………それはあたりまえのことだろう。………が、それだけが人生のすべてか、といえばそうじゃない。生存のためだけの計算ずくの付き合いだけがコミュニケーションだとしたら、世の中はずいぶん味気ないものになってしまう。
 そうじゃなくて、コミュニケーションっていうのは、生き延びる(生存)ことを越えたところからはじまるものじゃないかっていうのが(昔に書いた記事の中で)僕の考えてたことなのだ。

 これはバタイユが言ってたことそのままなので、興味があればそちらを読んでもらうとして、「遊び」とか「祭り」なんていう、本当に心から楽しいことっていうのは、そのような計算ずくの行為(つまり将来への配慮)ではあり得ないだろう。我を忘れて楽しみ、歓び、笑っているときって、「処世術」とか「コミュニケーション・スキル」なんてところからすっかり離れてしまっているはずだ。歓ぶことにテクニックなんていらないと思う。
 例えば、恋愛してるときって、のぼせあがって、すっかり周りが見えなくなってしまったりするけど、心がときめいているときっていうのは、やっぱり計算や配慮は姿を消してしまうものだと思う。ま、計算ずくの恋愛ってのもあるかもしれないけど、それは恋愛じゃないしね。

 逆にいうと、「遊び」にしろ「祭り」にしろ「恋愛」にしろ、将来への配慮や計算をなくさせるという意味では、生存を危機に陥らせる可能性を持っている。………遊んでばかりじゃ食っていけない。「祭り」の興奮の中で人が死ぬ。恋の甘さは死の甘さにつながっている………。10年ぐらい前に「失楽園」なんて映画がはやったけど、恋愛も突き詰めると、2人の溶け合った世界に没頭し、日常生活への配慮なんて無味乾燥なものに思えて、行き着くところは情死だったりするわけだ(もっともこれはあくまで「物語」の中でのことだけど)。

 僕がいってたコミュニケーションというのは、まさにこちらの、「遊び」とか「祭り」とか「恋愛」においてのような、生存すべき自己の枠を越える動きのことを言っているのだ。またそれだけに、コミュニケーションは自己の生存を脅かすものであると。しかしながら、コミュニケーションのない人生というもの、つまり、生き延びるための計算や配慮だけが突出するような人生は、まったく無味乾燥なものでしかない。生き延びて(生存して)いるだけでは本当の意味で人間的ではない。コミュニケーションがなくては人間は半分でしかないのだ。
 資本主義社会ってのは、基本的に計算がすべてみたいなところがあるだけに、僕が言ってる意味での「コミュニケーション」は過小評価される運命にある。それだけにむしろ今の世の中において「コミュニケーション」は貴重ですらあると思う。
 そういうものとして僕は「コミュニケーション」を考えていたので、「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」という意味で言われた「計算して人と付き合ってゆく」能力に、「コミュニケーション」という言葉が狭められて使われてしまったいるのが、面白くなかったのだ。たしかに、そのような付き合いも「コミュニケーション」ではないとは言えないだろうが。


 で、ここからは不登校の話に戻ろうと思う。チャマさんも言ってたけど、登校拒否は学校=社会への不適応である………と。もちろんそれはその通りだ。が、チャマさんの言い方だと、社会への不適応=コミュニケーション能力の不全状態、っていうマイナスの捉え方………能力やスキルの欠如ってことになって、それは病気や障害とはいわないまでも、なにかネガティブな方向で子供を理解することにつながるんじゃないかと思う。
 社会への不適応は、子供の生存………つまり将来のことを考えると、明らかに「不利」だ。うまく社会と折り合いを付けて、学校教育のカリキュラムをこなしてゆけた方が、将来的に「有利」であるに違いない。その意味で、親は子供が心配だし、不安も抱く………それは痛いほどわかる。だが、社会への不適応をそのようにネガティブな事態としてのみとらえるのは正しいのだろうか? それに、子供って社会に適応することなんてわけなくやってのけるんじゃないかって気がする。だから本当は適応できないんじゃなくて、適応したくないってことじゃないんだろうか? まさしく子供は適応を拒否しているってことなんじゃないだろうか?

 僕の言い方だと逆に、登校拒否は、子供自身が生き延びるための(将来への)配慮を自ら拒絶するがゆえに、それは「コミュニケーション」なのだ、ということになる。子供の心はわからないけど、たぶん学校へ行かないのは良くない、自分にとって有利じゃないってことは漠然と感じていると思う。みんな行ってるとこなんだから、自分も行くってのは自然な感情だろう。それなのに学校に「行かない」、「行けない」っていうのは、そこに一つの判断が………いや、計算ずくの判断や選択ってことではなく、計算以前の、あるいは計算を越えた無意識的、本能的な、判断があって、それをギリギリの形で表現している「コミュニケーション」なのではないかと思うのだ。
 したがって、社会への不適応はコミュニケーション不全と見るのではない。部屋にこもって布団をかぶり、石地蔵のように固まってしまうのは「表現」であり、子供は立派にコミュニケーションしているということだろう。それはきわめて人間的なアクションだと思う。
 学校の中に、自分が人間らしくあるために何か危険なものを察知した子供が、自分の将来への配慮を顧みず、自分の人間性を守るためあえて危険な賭けにでている。そんなギリギリの本能的な選択の表現が登校拒否なんじゃないだろうか。しかしその選択は周囲からことごとく否定されてしまうので、その表現は何か切羽詰まった、病的なものに見えてしまうってことじゃないんだろうか………。

 だから、チャマさんがどこから「社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠」だっていう考え方を学んできたのかは知らないけど、この考えは社会に適応できない人をコミュニケーション能力が欠如した人だっていう、まるで生きる能力や資格がないみたいなネガティブな存在と見なしてしまうものなんじゃないかっていう気がするのだ。
 社会学者とか心理学者って、けっこうこんな感じに人を脅かすことでシステムに迎合しようとする人が多いから、彼らの言葉には気をつけなきゃいけない。そういう人たちは自分が乗っかってきたシステムが崩れてしまうことを無意識に怖れているから、たとえシステムが非人間的であろうともそれに適応するべきだというし、システムから逸脱するものを一方的に「病気」だと見なしがちだし………。
 つまり僕がちょっと気になったのは、チャマさんが間違ってるっていうのではなくて、登校拒否を擁護するのにチャマさんがわざわざ不適切な言葉を使って、それを行おうと努力しているように見えたってことだ。まあ、僕の言ってることがまったく見当はずれだって可能性もあるが………。

 もっとも、何度も言ってることだけど、僕が登校拒否を「コミュニケーション」だと持ち上げたところで、子供の苦しみが消えるわけではない。だが、人間らしくあるってことが、社会に適応することだけではない(つまり社会の成り立ちそのものが非人間的ってこともある)ってことをしっかりと認識し、登校拒否という子供のアクションを肯定してやるってことは、難しいことではあるがまず親がしなければならないことだと思う。だいたい、計算と処世術が生活を牛耳っている今の世の中において、登校拒否児ほど純粋な「コミュニケーション」を行ってるものはないんじゃないか、なんて僕は思ってしまうんだ。

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Comments
 
araikenさま、TBありがとうございました♪
必殺TB返し!という訳ではありませんが、ここ数日で感じたことも含めて改めてエントリーしてみようかと思っております。
が、、、チョットお時間下さいませ。
ちなみに、私が「社会適応にはコミュニケーションが不可欠」というのは、放送大学のテキストを読んでそう読み取りました。
また、以前TVで脳科学の番組をやっておりました、そこでも同じようなことを言っておりました。
ただ、学校のテキストとは言え、大学というところは多分に教える方の主観が入っているものだという印象は拭えませんので、その辺りも踏まえて考えているところです。
いろいろと考えさせて頂く事ができて、嬉しく思っております!
取り急ぎ、お礼のコメントでした。
 
araikenさま、TBありがとうございました♪
必殺TB返し!という訳ではありませんが、ここ数日で感じたことも含めて改めてエントリーしてみようかと思っております。
が、、、チョットお時間下さいませ。
ちなみに、私が「社会適応にはコミュニケーションが不可欠」というのは、放送大学のテキストを読んでそう読み取りました。
また、以前TVで脳科学の番組をやっておりました、そこでも同じようなことを言っておりました。
ただ、学校のテキストとは言え、大学というところは多分に教える方の主観が入っているものだという印象は拭えませんので、その辺りも踏まえて考えているところです。
いろいろと考えさせて頂く事ができて、嬉しく思っております!
取り急ぎ、お礼のコメントでした。

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ずぅぅぅっと以前、コミュニケーションについて、araiken師匠と意見が割れた。 というか、結局言いたい事は同じようにも思えるのだが、見ていたコミュニケーションが違っていたんじゃなかろうか、なんて私は勝手に思っている。 それがken師匠との出会いでもあった訳なんだけ
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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