泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: 思想  

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論争

 僕は口下手だし、あまり頭の回転も速くないので、「朝まで討論会」に出てる人たちみたいにうまく討論することなんかできない。ああやって的確に、相手の言葉を理解し、また逆に切り返して自分の主張を述べるテクニックは見ててすごいなあ……っていうかとても羨ましく思う。
 それでも自分が今まで生きてきた中で、当然ながら周りと衝突することもあったわけで、何度か口論みたいなこともした。その時の議論なんてひどいもので、全然言いたいことも言えていない。まったく自分でもがっかりしてしまうほどだ。その点、ネット上の論争はじっくり考える時間もあって、僕にとってもやりやすい。………それでも論争って大変なことだと思う。

 今年の1月のことだったんだけど、bookloverさんて人と議論を始めた。当初は労働論みたいなことを議論しようとしていたはずなんだけど、だんだん問題がずれていったと言うか、僕の議論の進め方にどうもbookloverさんがあからさまに不快感を示すようになったいったんだ。あれれ? どうしちゃったんだろう、何をこの人は怒ってるんだろうと僕は当惑してしまったんだけど、はやしさんが適切にフォローしてくれて、救われたような気がしたのを昨日のことのように憶えている。
 bookloverさん自身のブログは削除されてしまったし、過去のことでもあり今更なんだけど、やはり僕の発言に対して言ってきたことだけにいくつか印象に残っている彼の言葉がある。自分の議論の進め方にまずいところがあったんだろうかと、しばらく反省的に考えたりもした。だけど、やっぱり僕がbookloverさんに不快感を与えるようなことをしたとは思えない。僕自身の発言の内容が正しいものだったかはともかく、議論するってことがどういうことなのか、その点に関してはbookloverさんは何もわかっちゃいなかったんだと思う。ただ、僕にとっては自明のことでも、他の人にとってはそうじゃないってこともある。だから、議論するってのはどういうことか、そのへんの僕の考えをを少し整理してみたくなった。それは、自分を弁護するためじゃなくて、一つのコミュニケーション論として………だ。

 まず、bookloverさんがなんで僕の議論の進め方に不快感を持ったかと言うと、(bookloverさんのブログが消えちゃったんでもう調べることができないから記憶に頼って書くけど)まるで土足で入り込んでくるように人の考えてることをあれこれと詮索し、想像だけで勝手にお前はこうだ、と決めつけている………と。さらにそんなにもあなたは自分を認めさせたいのか、他者との違いを認めることのできない奴なんじゃないか、というようなことも言っていたように思う。………そんなわけで僕は随分とぶしつけで暴力的な奴にされてしまったのだ。

 だが、前にも書いたけど、他人が何を考えているかなんて想像でしかわからないことなんであって、想像による勝手な解釈をぶつけ合うことによってしか他者と歩み寄ることなんてできるわけがないのだ。間違いや誤解はそうしたぶつかり合いの中で解決してゆけばいいし、そうやって解決してゆくしかないだろう。
 それに、いったい自分を認めさせたいというモチベーションに貫かれていない発言というものがあるのだろうか? 議論するってのはそもそも承認の欲求のぶつかり合いでしかないではないか。
 だから僕に言わせれば議論するってのはある意味で、詮索し想像し自分に引きつけて相手の考えを勝手に解釈し、それをもとにして論理を構成し相手の矛盾点に土足で踏み込み、刃物を突きつけ切り裂く行為の応酬なのだ。
 それを不快に感じて「やめてくれ」というのは、ボクシングのリング上で、何故あなたは私を殴るのだ、そんなにあなたは私に勝ってチャンピオンベルトが欲しいのか、と相手のボクサーを非難するようなものとしか思えないのである。
 何だって、bookloverさんはそんなことを言い出したのか、謎である。それとも彼は議論以外の何かをしようとしていたのか?

 ボクシングの例を出したついでに言えば、激しく殴り合っていたからといって、相手をたたきつぶしたいとか、認めないとかいうことではない。矢吹丈とカルロス・リベラのように熱い友情を感じることだってあるではないか。力一杯殴り合えるってことは、相手への敬意なしにはできない。どうでもいい奴や女子供に対して本気で拳を振り上げることはできないだろう。僕はbookloverさんが自分と似たものであると感じたからこそ、敬意を持ってアグレッシブに挑んだわけなのだ。
 だから強引で暴力的ですらある議論の進め方は、他者を認めないってこととは別の問題なんだと思う。

 すべてが激しい戦いであるべきだとは思わないけど、癒されるような優しい言葉にはない効果を激しい議論はもたらすものだ。
 人間は放っておけば惰性に流れてしまう。自分の世界にモノローグ的に閉じこもり、心地よいまどろみの中で停滞してしまいがちだ。そのような自分自身でつくり出してしまった殻をぶち破り、僕らを目覚めさせてくれるものは、暴力的な刃物のような力でしかないのではないだろうか。
 土足で踏み込むような乱暴さが、何か今まで自分でも気づいてなかったことに目を開かせることだってあるだろう。詮索的で強引な解釈がこそが、目覚めを引き出してくれるのではないだろうか。だからオーバーにはったりをかまして議論するっていうのは、正当なるコミュニケーションのテクニックだと思うのだ。

 したがって、常に新しくコミュニケーションを求める人は、自ら戦いを求める。ブログのことでいえば、あえて挑発的なエントリーをのっけたりする。それっていうのは、自ら肌をさらけ出し、さあここに刃物を突き刺せ、そしてオレのはらわたを引きずり出せ、そして土足でオレの心や頭の中を踏み込んで来い、と他者を誘惑することだ。
 それによって傷つき、痛い思いをするのかもしれない。が、痛みなくしてまどろみから目覚めることなどできない。恋愛なんかでよく言うけど、傷つかなければ成長できないっていうのと一緒なのだ。まさに痛みはコミュニケーションへの飛躍のためのスプリングボードである。まあ、もっとも痛すぎて死んでしまっては元も子もないのだが。

 いや、ブログだけではない。芸術表現なんかもそうだろう。絵を描いたり小説を書いたりするのって、一つの問題提議であり挑発であり誘惑なのだ。セザンヌやゴッホは絵を描くことで自分の肌をさらけ出し他者に向かって、さあかかってこいや! と吠えていたのかもしれない。そうすることで危険な極限への飛躍を試みていたのかもしれない。それは芸術そのものの存在意義であるコミュニケーションの追求だったにちがいない。
 コミュニケーションというのは単なる情報の移動なんかではなく、痛みを伴う、自分の殻を破る作業なのである。自分の殻が破れるとともに世界は新しく更新される。それはかつて「祭り」が担っていた役割と似ているような気がする。どちらも危険を伴った歓びでなのだ。

 ブログという道具をどのように活用しようとそれは個人の勝手だ。だがコミュニケーションツールとしていちばんおもしろく使いこなすとするなら、このような問題提議のために、すなわち自らに痛みを誘うために肌をさらすための道具として使うのがいいんじゃないだろうか。自らに試練を与えるための道具として………。いや、あらゆる芸術メディアも同様に、そのような自らに試練を与えるためのツールでありうるし、実際アバンギャルド芸術はそういうものであった。
 ブログにしろ芸術にしろ、それはフイクションでしかない。特に匿名で表現できるブログの場合自分に痛みが返ってくるような使い方をしなければ、本当の意味ではおもしろくないんじゃないだろうか。

 ついでに言っておこう。自分の身体そのもの、これもそのようなツールとして考えてみるのだ。自分の身体を使うことで(つまり行動することで)自分自身に試練を与える。自分自身に痛みが(この場合、精神的な痛みという意味だが)帰ってくるような仕方で、自分の身体を利用する(行動する)。これが、自分の人生をもっとも豊かでおもしろいものにする方法なのではないだろうか。
 あらゆる道具の結節点となる根源的な道具、それが身体だと思うのだが、この道具の用い方、実はそれがいちばんの問題なのかもしれない。コミュニケーションへと開かれてゆくために身体を徹底的に使いこなすのか、それとも身体そのものを1秒でも長持ちさせるためにメンテナンスのみに全力を注ぐのか…………。なにしろこの道具は平均80年ぐらいで使いものにならなくなってしまうのだ。大事に破壊や老朽化から守ってゆかなければならない。そのためにはあまり使わないのがいいのかもしれないが………。

 しかし、やはり道具は使わないと意味がない???

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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