泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: アート・建築・デザイン   Tags:  スラム  思想  芸術  建築  

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スラム

 実は秘かに建築に興味を持っている。近代建築にも興味があってル・コルビジェとかミース、グロピウスなんて名前は頭に入っている。もちろん彼らの建築の意義は認めざるを得ない。伝統的、装飾的な建築を否定する形で近代建築は姿を現した。機能的で、国際的なじつにスッキリとした美観。そこには近代がどのようなものであるべきか、という思想が込められていた。近代のプロジェクトの壮大な実験であったのだ。が、時間の経過とともに当然ながら近代建築の様式に対して批判が提出される。が、それでも彼らの歴史的な意義は揺らぐことはないのである。
 ところでその後、建築様式のメインストリームとなって現れてきた、ポスト・モダニズム建築であるが、これがどうもいただけない。一言でいってつまらないのである。ちょっと見てほしいのだが………。


 僕のうちの近くにあるゴミ処理施設なんだけど、典型的なポスト・モダン建築で、田んぼの真ん中にこんなのが建っているんだ。


 よく見るとギリシアとかヨーロッパの宮廷みたいな建築様式が装飾的に使われている。


 設計した人には悪いんだけど、こういう小細工は面白くないし、よくあるラブホテルみたいな悪趣味さがある。こんな設計を任せた市もどうかしてるんじゃないかと思ってしまう。しかもこの施設は巨大なので妙な威圧感があるのだ。
 この感覚、何かに似てると思ってたんだけど、戦後のモダンアートの作品と同じだと気がついた。アンフォルメルとか抽象表現主義とかポップアートとかいろいろ流派があるけど、結局、あれらはすべて商品じゃないか、って僕は思ってしまう。ああやってアート作品同士の間でなんとかイズムとかいって、差異を競って、商品としての価値をひねり出そうという労働………それが戦後のモダンアートだと思うんだけど、ポスト・モダン建築もまったく同じなんだ。それは退屈なものなんだけど、新しい建築物はこぎれいで巨大なもんだから、こちらを力で圧倒してくる。なんていうか、資本主義社会の権力をこれ見よがしに見せつけられているようなそんな気になってくるのだ。システムには逆らえないよ、という無言の圧力を感じてしまう。
 たとえばなんだけど、同じゴミ処理場にしても、どうせデザインするならこのくらいやって欲しい、っていうのがこれ。建築というものでいかに自由な表現ができるか、日本の建築家も学んで欲しいものだ。

 一方、ポストモダン建築とは対極的なものではあるが、非常に面白い問題を提議している「建築」がある。
 『現代建築 ポストモダニズムを超えて』という本にスラムについての記述がある。ずっと前から気になっていた記述だ。ちょっと書き出してみよう。

『アジアやラテンアメリカにおいて大都市人口の半ばを占めるという、一都市数十万から数百万人が居住する現実のスラム、あるいはわれわれの幻像としてのスラムには、コミュニティがある。そこでは皆がいわば肩を寄せ合って暮らしており、ある一区画における生活の共同性は顕著である。それに対してたとえば我が国の今日の一般的な住宅地には、そういったコミュニティイの存在は希薄である。コミュニティの再生、それは近代建築、あるいは近代都市計画の誕生以来今日まで続く基本的テーマである。失われたコミュニティをわれわれはスラムに見いだし、ある感銘を受けるのであろう。そこには少なくとも人間がいる。生き生きした子供たちがいる。』

 そのあとに「同潤会アパート」についての記述が続く。随分古い鉄筋コンクリートのアパートなのだが、住民たちがそれぞれ勝手に部屋を広げるためや利便性を高めるために増築を繰り返した跡が見いだせるのだ。

『………既存のものは使いものにならなくなったのだろう。あとから取り付けられた給排水管が、こういった増室の隙間をはうように縦横に走っている。その光景は一瞬どきりとさせるほどのものだが、同時にある感動をわれわれに与えた。その感動はおそらく、生きること、住むことへの切実な欲求が建物に露に現れていることから来るのであろうし、また、建物がまさに生きている(増殖している)ことを目の当たりにしたことによるに違いない。』

 そして最後にこう締められる。

『われわれは、心の中では今日の工業化され、こぎれいにされた住宅や都市空間に対していつもなにか反発というか違和感を持っているのではないか。
 アーバニティという言葉がある。都市らしさといった意味の語だが、60年代、CIAMらの提案にはじまる整然としてこぎれいな近代都市計画や住宅地計画に対して、いわばゴチャゴチャとしてこみいった都市の提案のコンセプトとして生まれたものである。スラムやバラック街は、まさにこの反・こぎれいなものそのものである。そこでは都市や建築の構造が物体として文字通り透けて見える。そのことがわれわれを安心させるのだ。それに対して工業化された都市の中では、都市の構造も建築の構造もその滑らかな装いの中で隠されている。隠されているもの………見えないもの………に対するわれわれの不安がそこでの反発や違和感を生み出してると言えないか。
 アジアのスラムにおける建物やさきのバラックは、その大半が廃材によって造られているのだが、そのことが投げかける意味も大きい。廃材のコラージュとしてのそれらの建築が、かつてシュルレアリスムやダダがわれわれに与えた衝撃にも似た何かをおぼえさせるのだ。そこでは廃材………かつて生きられたもの………が、プロの職人ではなく素人による新しい組み合わせの中で新しい意味をもってわれわれの前に現出する。と同時に次のこともわれわれに気づかせる。使い捨てられ見捨てられたもの、それらはまだ生きている、生き続けようとしていることを。
 廃材や身近なもの(材料)で物を組み立てること、それはわれわれの幼児・少年体験として身体記憶に残るものである。このこともアジアのスラムやバラックにもつわれわれのある言いようもない親近感の説明から切り離すことはできないだろう。』


 これだ!と思ってしまう。商品として企画され設計された建築なんかより、生活の必要から出てきたカタチのほうがずっとおもしろい。これはアートにもそのまま言えることだと思う。作品そのものを目的につくられたものはおもしろくない。常にそれ以前の生活というか生き方のようなものがまず問題なのだ。スラムは面白い問題を提議している。
 さらにスラムにおけるコミュニティについての記述も僕にはひっかかる。「コミュニティの再生、それは近代建築、あるいは近代都市計画の誕生以来今日まで続く基本的テーマである。」と書いてある。現実にはむしろ、商品としての住居や建築、そして都市計画そのものが、コミュニティを分断しているように僕には感じられる。確かシチュアシオニストは都市計画を批判していたが………。
 どうもすぐ結論を出せそうにない。だが、面白そうなのでこれからも建築について考えていこうと思う。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

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