泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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正の祝祭

 『harowanwanの日記』というブログの中で、harowanwanさんが雑誌『現代思想(特集 フリーター)』を読んだ感想として、以下のようにおっしゃっていました。

 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」、西澤晃彦「貧者の領域」が興味をひいた。 ミドルクラスはその揺らぎつつある地位を確認するために、フリーターという集団を必要としているって話なんだけど、途中からなんかこの解釈はなにかで読んだ話だとおもったら、赤坂憲雄の「排除の現象学」で言われているに近いのでありました。

 これを読んで「あっ」と思った。そうだよ、そうだよ。似てるんだよ。「異質なもの」の排除というテーマ………。渋谷望の上の論文はまだ読んでないけど、『魂の労働』で語られるアンダークラスの排除と、赤坂憲雄の「排除の現象学」で言われていることってよく似ている。そうか、だから『魂の労働』にすんなり共感できたんだ………。
 赤坂憲雄は異人論という分析装置を使って、近代社会における排除の構造を分析する。近代以前の共同体における「異質なもの」との両義的な関係性、つまり、穢れたものでもあり、神聖なものでもある、という両義的なかかわり方が近代社会では消失し、「異質なるもの」は一方的に排除されるべきものに、というか「異質なるもの」の排除によってこそ近代空間は成立しているのだと主張する。ホスピタリティ(異人歓待)の習俗は近代社会においてはなくなってしまった、というわけだ。
 狂気、乞食、不具者、などとの両義的な価値を持った関係は消え去り、彼らは病者、犯罪者、脱落者、というネガティブな表象の中へ押し込められてしまったのだ。赤坂は、いじめ、浮浪者、自閉症患者、外国人労働者、などを近代社会によって排除されたものとして見事に描き出している。これらの排除された人々というのは、渋谷の言うところのアンダークラスとピッタリと重なるわけだ。

 ただ、赤坂憲雄の「排除の現象学」では、分析だけで終わってしまっていて、そのような(ミドルクラス的な)近代社会の薄っぺらさに対して、じゃあ、どうしてゆくのか、という赤坂の考えはまったくと言っていいほど示されていない。
 また赤坂自身、その後は民族学や歴史学の方へ関心を移していったようで、「排除の現象学」の中にあふれていた、近代システムの批判の視線は薄れていってしまった。私にはそれが非常に物足りないものだった。

 渋谷望の『魂の労働』は、そんな僕の溜飲を下げさせてくれるような本だと思う。赤坂憲雄にはない反システム的な要素がむしろこの本を書かせた動機となっているのだ。harowanwanさんは『しかし、現状分析として悪くないだけに、よけいに読むほど救いのない特集。60年代と違って、いまどき「米帝国主義と戦う人民の連帯」とかいっても通じないのはさすがに執筆陣もわかっているからそれは書かない。現状が見えるひとは、ただただ嘆くしかない。』と、絶望感を漂わせています。確かに赤坂憲雄の『排除の現象学』を読んだときは私もそのような絶望感を感じましたが、『魂の労働』を読むかぎり、渋谷望は正しい方向性を打ち出せていると思いました。

 要は、より巧妙な支配の戦略を繰り出してくる資本に対して、どのように対抗的な価値をぶつけてゆくのか、ということだと思うのですが、 渋谷は『誰にもマネのできない「手に負えないスタイル」を有したマイノリティになること………暗がりの中に、つまりあらゆる尺度の外部で、これらを可能にする自律的な空間を膨張させ、卑小なオーバーグラウンドを飲み込むこと。これこそ善悪の彼岸において闘われる能動的な抵抗の形態ではないだろうか』と、『魂の労働』を結んでいる。つまり自ら進んでマイノリティであることを意志する必要があるということです。
 これはそのまま異人論の文脈で語ることができると思います。赤坂がいうところの「異質なるもの」は、両義性………すなわち穢れているがゆえに恐れられ忌避されるネガティブな面と、神聖であり、退屈な日常を活性化するポジティブな一面を併せ持っていた。つまり労働の規範が支配する平板な日常をおもしろいものにするには、「異質なるもの」の日常性への介入が不可欠だということです。したがって、「現状が見えている人は、ただただ嘆く」のではなく、自らが(システムの側から見れば)異人(=マイノリティ)となって、マージナルな闇の領域へ歩んでゆく、ということでなければならない………。ホスピタリティが消失してしまった近代に、このような形で新しい「異質なるもの」とのチャンネルを自ら切り開く必要があるのだというわけです。

 赤坂憲雄は排除のメカニズムを「負の祝祭」という捉え方をしていた。しかし、では「正の祝祭」というものもあるはずだと思うのですが、それについてはまるっきり語ってないのです。近代社会=資本主義社会には祝祭はあり得ないのか? そんなことはない。渋谷が描いているようなアンダーグラウンドにおけるマイノリティの闘争こそが、私には「正の祝祭」に思えるのです。そのような闘争を通じて新しい「祭り」を組織すること、またその「祭り」を自ら楽しむこと、それが資本の支配の戦略に対する決定的なカウンター攻撃になると思うのです。

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荒井賢 (Ken Arai)

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