泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: 思想など   Tags: Thought  

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除名処分

 私はその日サッカーの試合を観ていた。ワールドカップ最終予選北朝鮮戦だった。緊迫した試合運びに手に汗を握りながらテレビにかじりついていた。後半ロスタイム、ゴール前にいたこの日代表初出場の大黒が目の前にこぼれたボールを見事ゴールに流し込んだ。私は拳を握り、ガッツポーズをしながら立ち上がった。そのとき部屋の入り口にAが立っているのに気がついた。
 Aは冷ややかな目でテレビに映し出された映像と私の顔とを交互に眺めていた。わたしはギクッとして手をしたに下ろした。「随分とまたフットボールにご執心だな。」と彼は軽蔑の眼差しを私に向けながら口を開いた。「スポーツという捏造された祝祭に夢中になっているなんて、インテリが聞いて呆れるってものだ。」二の句がつげない私をよそに、Aは腕を組み、私の横に立ってテレビを見下ろしながら語り続けた。「国の誇りをかけた戦いだと? 古くさいナショナリズムを相も変わらず再生産している。ワールドカップなんてナショナリズムの祭典以外の何でもない。それは君もわかっていたはずではなかったのか?」
 試合が終わりブラウン管はインタビューを受ける選手の姿を映し出していた。Aは、しばらく黙ってインタビューに聞き入っていたが、私をチラッと見ながらまた話しはじめた。「勝利のために、チームに貢献できてうれしい………か。見たまえ。スポーツ選手たちはチームの歯車となって、ピッチを走り回るのだ。それに彼らは絶えず熾烈な競争の中にある。ポジションを得るために仲間たちと常に競い合う立場におかれるのだ。そのため他の選手よりも少しでも多く練習し、自分の技に磨きをかけつづける。勝利という捏造された栄光と、自らのプレーヤーとしての価値、すなわち報酬が彼らを肉体を酷使する激しい労働へとモチベートしているのだ。
 もっとうまくなって、プレーの精度を高めて、集中力を高めて………といった彼らの言葉は、まさしくわれわれが問題にしてきたポスト・フォーディズムにおける資本の支配の戦略下にある労働者の状況、つまり自発的従属の姿を思い出させるだろう。スポーツ競技とは典型的なネオリベラリズム的システムのモデルであり、教科書なのだ。
 どうしてわれわれがそのようなスペクタクルに共感できるであろうか。それは批判の対象でなければならなかったのではないか。」
 Aはくるりと向き直り、私を指差しながら睨みつけた。。「きょう私は、君の非行動主義の原因を見た。君は権力に迎合しているのだ。どんなに外面を取り繕おうとも、私の目は欺くことはできない。この言葉を良くかみしめたまえ。君はプチ・ブルジョワなのだ!」
 Aは踵を返して部屋の入り口へと向かった。「次回の会合においてわれわれは君のメンバーとしての去就について議論しなければならないだろう。われわれの組織は不純な分子を必要としない。近いうちに君にも連絡が行くだろう。」と言い残して彼は部屋を出て行った。テレビのブラウン管の中ではジーコ監督が興奮気味に勝利の報告を続けていた。
 …………数日後、私は組織を除名されたという通知を受け取った。


 ま、冗談はともかく、ブログをはじめたときから気になっていることがある。僕は小倉利丸の労働論が好きでよく読むのだが、ある雑誌でスポーツ(オリンピックについて言ってたんだと思うけど)がナショナリズムを再生産している、したがってまったく興味を持てない、という意味のことを言っていた。同じようなことだが、ラジオで、ある在日韓国人がオリンピックをナショナリズムの祭典だとこき下ろしていた。
 確かにその通りだと思う。納得できる論理だ。僕もよくわかっているのだ。宮台真司がワールドカップをナショナリズムと考えずに「祭り」と理解するべきだ、なんて言ってるのを聞いたことがある。正直グラッとくる考えではあるが、僕にはそんな迂闊なことは口が裂けても言えない。スペクタクルとは捏造された「祭り」であり、捏造されたイレギュラーだ。にもかかわらず、現実的にはサッカーやオリンピックというスペクタクルのテレビ中継を熱心に見ている僕がいるのだ。正直いって日本人が活躍するのを見るのはうれしいようなのだ。これは僕の甘さなのだろうか? 深夜のオリンピック中継でゆずの曲に合わせて宙を舞う体操選手の姿を見て目をウルウルさせてたりするのだ。これは僕が年を取ったせいだろうか? そうかもしれない………。
 反システム的なサイトを展開しようとしてるのに、無邪気なサッカー観戦の話題ってどうなんだろう? と、1年前から思ってきた。そんな記事をブログに載せていいものだろうか。そして実はビクビクしてたりするのだ。誰か怖い人に「君はプチ・ブルジョワだ!」なんて古くさい言い方で責められるんじゃないか、なんて。僕には左翼の友達なんて一人もいないのに………。
 僕は芸術畑の人間なので、アートという名のスペクタクルにはちょっとうるさい。特に今の職業である映像に関しては、生々しいだけに批判的だ。………であるのにもかかわらず、案外、映画なんか見て目頭を熱くしているのだ。しかもそれは題名を言うのもはばかりたくなるようなB級のハリウッド映画だったりする。
 自分でもよくわからないけど、他人の思考で自分の感情を抑圧するのは良くないような気がした。自分はアマチャンなのかもしれないが、自分の感情にはそれはそれとして真正面からつきあってゆかねば、と思っている。だから矛盾も含めて、すべてを垂れ流そうと思う。

Comments
 
荒井さん、こんばんは。
このエントリで荒井さんが仰ってる問題ってのは、別にスポーツに限らず、悩ましい問題ですよね。要は、自分の欲望に忠実に行動することが、大域的に見た自分の目指すところと齟齬を来たしてしまう、という問題。
ただ、だからといって、大義のために自分の欲望を押し殺すというのは、やはりバカバカしい、というか、元も子もない、という気がします。欲望は欲望としてそれに忠実に、しかし、その欲望の集合的な組織のされ方には注意を払う……と、まあ、言うは易しですが、そう思っています。
で、このエントリの前半部分、ちょっとだけですけど、「え、ほんと?!」って感じで読んじゃいました。でも、未だに実際ありそうですよね、こういうこと。
 
はやしさんも常日頃感じてることのようですね。それを聞いてちょっとほっとしました。兄貴分とか先生みたいな人の言うこととか行動とかが、けっこうひっかかって、自分の正直な欲望を抑圧してしまうなんてことがありそうなんだけど、それはやっぱり本当じゃないですからね。
はじめの作り話ですが、ヨーロッパの知識人ってこんなふうにやり合うみたいですね。厳格というか、徹底してるというか………。そのへんの率直さはすごいですが、私たちにはちょっとウザいっていうか、もっと楽しくやろうよ、とか言いたくなってしまいます。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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