泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 
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仄暗い記憶の底から 11 蒸気船マークトウェイン号

 二十代前半、4年間にわたって僕は浦安の東京ディズニーランドで清掃(カストーディアル・クルーと言っていた)のアルバイトをしていた。十代の学生生活が惨憺たるものであった僕にとって、ディズニーランドで働いていた毎日はまさに青春と呼ぶべきものだった。同年代の女の子もいっぱい働いていた。僕も何人かの女の子に実らぬ恋心を抱いたりした。(残念ながら僕はさっぱりモテなかったのだ。)頻繁に催される飲み会、友人たちとのささやかな逸脱。一人暮らしをしていたけれど仕事場に出ていれば、夏休みも、クリスマスも、正月も寂しい思いをすることは全くなかった。毎日がお祭りのようであり、とにかく働くことを楽しんでしまおうというモティベーションに貫かれた毎日だった。
 僕が配属されていたのはウェスタンランドだった。みんな知ってるんだろうけど西部開拓時代のアメリカを舞台にしたテーマパークだ。だからこのエリアのことは隅々まで知り尽くしている。もっとも、このあいだ久しぶりに女房を連れてディズニーランドに遊びに行ったら、新しいアトラクションもできててすっかり様変わりしていたが……。無理もないよ、もう二十年も前のことだから。

 アメリカ河というところに蒸気船マークトウェイン号という大きな船が走っているのだが、僕らには最終便に乗って船の中のゴミを集めるという仕事があった。したがって僕は数えきれないほどあの船に乗っている。
 「あっ、開拓者の小屋が燃えています。」という録音のアナウンスを何回聞いただろうか。火事になった開拓者の小屋から煙が出ている横を船が走り抜けながら、「ならず者の仕業のようです……。未開の地で開拓者たちは多くの危険にさらされていたのですね。」と解説が入る。やがて対岸にインディアンの集落が見えてきて、住人たちが何か交易品を手にしてにこやかに僕らの乗った船に向けてそれを差し出している。蒸気船では「このように、中には友好的な部族もいたのですね。」と解説される。

 当時はそれほど気にはならなかったんだけど、こんな遊園地の中にもポリティクスが現れているのだ、と今では感じてしまう。ここではアメリカ人(白人)は未開の地を開拓する文明人であり、インディアンは彼らと非友好的かつ野蛮な原住民として描かれている。開拓なんていうけど、これが白人によるアメリカ原住民の土地への侵略であることは僕らにとっては常識である。しかし、侵略に対するレジスタンスの行為をディズニー(アメリカ人)は、開拓者に対する非友好的な(ならず者の)態度として理解する、というわけだ。
 あまりにも無邪気に正当化されたアメリカ的な視線に、僕らは呆然としてしまう。「中には、友好的な部族もいたのですね。」…………。そういう発言はむしろインディアンがしたかったのじゃないだろうか。「中には、友好的な白人もいたのですね。」と。

 個人にしろ、共同体にしろ、僕たちは世界を眺める独自のパースペクティヴ、体系を持っている。精神分析の岸田秀さんはそれを「幻想」という言い方で表現している。岸田氏の診断によると、アメリカ人は強迫神経症だ、ということになる。
 自由と民主主義の国アメリカの建国に際して、先住民族の暴力的な排除が行われたという経験をアメリカ人自身が隠蔽、抑圧してしまった。この経験の欺瞞が今日アメリカが国際社会の中でとらざるを得ない「自由」の押し売り的なスタンスの原因だというのである。
 詳しくは岸田氏の本を読んでもらうとして、とにかく軽金属のようにスマートなアメリカの「自由」と民主主義が僕らにとって何か押し付けがましく、狭隘な印象を拭えないのには、このようなアングロサクソン系の移民の偏狭な人間性、そして彼らの偏狭な世界を眺めるシステムに原因がありそうである。まさに今日アメリカは、強迫的に「自由」の幻想を世界に押し付けつづけている。
 日本人が特攻隊で攻撃しかけ、ベトナム人が国を挙げて抵抗し、今またイスラム原理主義者が激しいテロ行為をもってメッセージを発しなければならないわけは、アメリカの病的な「自由」の幻想の押し付けが、他民族のプライドを踏みつけにする一面を常に持っているからに違いないのだ。

 ディズニーランドの話に戻るが、イッツ・ア・スモールランドというアトラクションで
は、世界各国の民族衣装をつけたかわいらしい人形がクルクル踊りながら「世界は一つ、世界は同じ、小さな世界……」と歌っている。どうもあのアトラクションを見て僕が感じてしまうのは、博愛の精神なんかではなくて、アメリカの枠組みの中での多様性、アメリカ的枠組みの中でこそ世界は一つになるべきだという帝国主義的発想だった。

 だが、もう一つ考えを進めてみると、アメリカという国はある意味、近代資本主義の精神を露骨に体現している国だと見ることができるのではないだろうか。近代社会の非人間的な狭隘な一面がアメリカという国を通じて発現していると……。まあ長くなるのでこれについてはどこか別の機会に考えることにしよう。

 ついでに言えば、僕たち日本人もアメリカ的な視線をかなり共有しているのじゃないかと思う。太平洋戦争に敗戦して以来、日本はアメリカの子分になり、アメリカ文化のシャワーを浴びて生活してきた。僕らもインディアンを未開のならず者だと見なすことに何の抵抗も感じなくなりつつあるのじゃないだろうか。本来僕らは立場的にも、また人種的にもインディアンと同じ側にあるはずなんだけども。西部劇を見たって、登場するインディアンなんかより、きっと白人のカウボーイの方に感情移入しているはずだ。………間違いない。

仄暗い記憶の底から 9  東京コーヒー

 二十歳の頃、バイト先の友達に誘われ、『ニューフェイズ』という名の「登校拒否を考える会」に参加していたことがある。登校拒否の経験者が作った会合で、登校拒否をしていて苦しんでいる児童に居場所を作るという目的でスタートしたらしい。もっとも実際にはそのようには機能してはいなかった。会員は四人しかいなかったし、会報を作ったり、一緒に遊びに行ったりしているだけだった。とは言えそこでの経験は面白く、貴重なものだった。
 登校拒否は病である、と一般に考えられているが、この会の主張は、むしろ学校というのは経済成長のために役立つ人間を社会に送り出すための非人間的な装置であり、登校拒否とはそのような学校教育に対する拒絶反応なのだ、というものだった。つまり登校拒否を無意識的なシステムへの反抗として、ポジティヴなものとして捉えようというものだった。
 もちろん僕は登校拒否などしたことはない。しかし新しい芸術のあり方を模索していた僕は、直感的に彼らの小さな闘いにシンパシーを感じた。本当に人間的に、クリエイティヴに生きようとすれば、どうしても社会のシステムと衝突し、齟齬を来さざるを得ないのではないか? 僕らの現に生きているこの社会は、僕らが人間らしく生きるためにつくられているわけではないのだ、といった反システム的な闘争への方向性の中に芸術の新しい形態、新しいあり方を感じ取ったからだ。
 一人一人が創造的な生き方、生の新しい価値を打ち出して生きるべきだ、と僕は主張し、会のメンバーも共感してくれていた。『ニューフェイズ』という会も、創造的な新しい生の形を創出する会であるべきだ、と僕は考え、実際、会もそういう方向へ動き出したかに見えた。だが、やがてこの会は空中分解というか、自然消滅してしまった。問題は、会の目的と会の形態にズレが生じてしまうということだったと思う。
 一人一人が創造的に生きるための会であるのに、会によって組織されてしまうのはおかしいのではないか? 個性を強調していながら、組織のヒエラルキーに従属しなければならないというのは……、矛盾なのではないか。
 
 難しい問題だと思う。おこがましく聞こえるかもしれないが、この問題は、例えば芸術運動、シュルレアリスム、シチュアシオニスト、あるいはバタイユの組織したアセファルという秘密結社なども同じようにぶち当たった問題だったのではないだろうか? どうも二十歳の頃のあのときの僕らの経験、今思えば青臭さ満点の幼い闘いの経験は、それらヨーロッパの文化運動と同じ問題をはらんでいたのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 もうあらから二十年も過ぎてしまった。あのときの仲間は今どうしてるだろう? 元気でやってるだろうか?

仄暗い記憶の底から 8  釜山港へ帰れ

 初めての日本脱出の出発地は、成田ではなく下関だった。フェリーで韓国のプサンへ向かったのだ。
 初めての海外を前にして、私はやや緊張しながら大広間のようなフェリーの客室の片隅に腰を下ろした。しばらくすると一人のおばさんが僕のところにやってきて関西弁で話しかけてきた。プサンの税関は酒3本まで無税で持ち込めるのだが、私はいっぱい持ってるのであんちゃん3本だけ持って出てもらえるか? ということだった。いいですよ、と答えると、おばさんは僕に千円札3枚(いや三千ウォンだったかもしれない)を握らせて、これとっといて、といった。「いや、いいですよ、これくらいのことで。」と断ったのだが、おばさんは「いや、とっときなさい。金はいくらあっても邪魔になるもんじゃない。」と私に金を押し付けてきた。まあそこまでいうのなら断ることもないか……、と思い僕は金を受け取った。
 やがて船は出航し、しばらくするとさっきのおばさんが手招きして、一緒にこっちでメシを食いな、と誘ってきた。そのおばさんの横には紫色の光沢のあるジャケットを来たパンチパーマの迫力のある男が座っていて、そのまた隣には酔いつぶれた細身のチンピラ風情の奴が寝転んでいた。おばさんにいわれるままに食い物をつまんでいると、パンチパーマの男が「にいちゃん韓国は初めてか。」と話しかけてきた。ハイ、と答えると「じゃあいろいろと韓国のこと教えてやるよ。」と二人と一緒に過ごすことになってしまった。
 しかし話してみると悪い人ではなさそうだった。「韓国人にもいい奴と悪い奴がいる。いい奴は本当にいい。だけど悪い奴はとことん悪いから気をつけなきゃいけない。」なんていってた。大分のヤクザということらしく何度も韓国へ渡った証拠だと韓国のビザだらけのパスポートを見せてくれた。「ヘエ、そんなに韓国が好きなんですか?」とたずねると、「いやあ、好きっていうか……、女が安いからな。」
 そうなのだ。僕はずいぶん自分がナイーブに思えた。九州のヤクザは韓国に女遊びに行くのだな………。ストレートな発言に「地球の歩き方」かなんか読んで品行方正な韓国旅行を頭に描いていた僕は、現実というものの奥深さを見たような気がした。
 しかしパンチパーマのおじさんの方では、若い奴らがよく一人で韓国になんか遊びに行けるな、俺は一人でなんて絶対に恐くて行けねえや、などと感心していた。それを聞いていたおばさんが「時代や、そういう時代なんや。」と繰り返していた。

 数日後、ソウルに到着した僕はデーウォンという名の外国人の集まる安宿にいた。そこで日本人の旅行者に出会っていろいろと話を聞いた。僕がフェリーで韓国入りした、というと、「じゃあ、荷物もってくれっていうおばさんにあったか?」と聞かれた。その人の話によると、あのおばさんたちは、ポッタリ ジャンサと呼ばれる在日韓国人らしく、ああしてプサンと下関との間を行ったりきたりして、いろいろ商売をしてる一種の貿易商なのだ。「ええ、お酒もって税関を通ってあげましたよ。」というと、「じゃあ、五千円(ウォン)もらった?」と聞き返された。「いや三千円(ウォン)でした。」「それならメシ食わせてもらったんじゃない?」「そうです。そうです。」「じゃあ相場通りだね。」
 そうなのか。あのおばさんは親切でお金をくれたのではなかったのだな。そういうシステムだったわけだ。僕はその日本人の旅行者に聞いた。「でもあんなことで儲かるんですかねえ?」すると「何言ってんだよ。あのおばさんたちはスゲー金持ちだよ。あの商売で家が建つんだよ。」などと言っていた。
 ソウルの路地裏にある小さな居酒屋でのことだった。あのとき僕は24歳だった。僕も若かったのさ。

仄暗い記憶の底から7 アンリ・ベルグソン「創造的進化」を読んだ頃

 10代の後半は僕にとって暗黒の日々だった。特に浪人生として美術研究所に通っていた2年間は友達もいなかったし、将来一体どうやって食っていったらいいのかもわからず焦るばかりであった。同じ美術を志す仲間たちと毎日顔を合わせているのに、一言も口を利かなかった。僕は哲学的な直感とでもいうのか、世界が存在することの驚きを知るところから芸術を捉えるという、実存思想的な考えを抱いていた。このまぎれもない真理の深い意味を気にして絵を描いてる奴など一人もいない。芸術を志す者たちの、この底の浅さは何だろうか? 僕の自負心は肥大化していた。しかし一方で、研究所の学生たちにコンプレックスを抱いてもいた。親離れができず、こうして友達一人できない自分に比べて、そつなく周りの人たちとつきあってゆける他の人たちにがみんな大人に見えた。結局は、周囲と大人の関係を築いてゆける人の方が成功するんじゃないか、いくら内面が豊かでも僕はそれを表現する手立てもないまま失敗し、つぶれてしまうのではないか? 分裂した心を抱え、焦りはつのるばかりであった。
 しかも、芸術の技術という問題も抱え込んでいた。研究所で学んでいるデッサンの技術が、いったい僕の持っている芸術のビジョンとどうつながるのか?このままデッサンを続けて美大に入り絵を描き続ければ、人間存在と絵画の融合する境地にたどり着くのだろうか。
 さらに自分自身の芸術的な感受性にも自信が持てなかった。ピカソ、ブラック、マティスなどの誰もが賞賛する絵を眺めてもまるっきり感じるところがなかった。万事にとろい僕の芸術的感性に欠陥があるとしたら、これはもう芸術家になりたい僕にとっては死活問題なのだ。

 苦しい日々が続いていた。自分で自分が苦しんでいることに気付かないままに。デッサンに行き詰まるとよく学校をさぼって街を歩いたりしていた。そのうち学校の近くにある図書館で夕方のバイトの時間まで過ごすことが多くなった。どういう理由だったか、そこで僕はアンリ・ベルグソンというフランスの哲学者の『創造的進化』という本を読みはじめた。当時僕がよく読んでいた哲学書は、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」という本だったが、ベルグソンは哲学史上、ショーペンハウアー同様「生の哲学」に分類されるため、なんとなく親しみを覚えてはいた。でも読んでみようと思ったのは、ここには何かがあるに違いない、という漠然とした直感によるものだった。(稲垣足穂という人の小説だったかエッセイだかに『物質と記憶』という不思議なタイトルのベルグソンの哲学書の話題があって、それが心のどこかに引っかかっていたのだと思う。)
 珍しく僕は本気だった。図書館においてあったのは白水社のベルグソン全集であったが、自分で岩波文庫の『創造的進化』を別に用意して、訳文がわかりづらいときは、そちらを参照した。大事なところには傍線を引き、理解できないときは前に戻って読み直した。あれほど一冊の本を熱心に読んだことはなかった。

 面白い本だった。ベルグソン独特の時間論をもとに、進化論を捉え直そうというのがこの本のテーマだ。特に、空間化した物理学的な時間の解釈を、本源的な時間、彼のいうところの純粋持続に置き換える手腕が鮮やかで、目から鱗が落ちるような気がした。僕らは過去の繰り返しではなく、一瞬一瞬が新しい創始的な時間を生きているのだ、ということをはっきり理解した。読後の僕自身のことをいえば、ひとつは芸術の技術の、もうひとつは僕自身の生き方の問題について、ある解答に到達した。
 どのように納得したのかほとんど忘れてしまったが、「技術」を学ぶということはすでに「内容」も学んでいるのだ、という結論をベルグソンから引き出した。美術学校では、表現のための手段、表現のために必要な客観的な技術を学んでいるつもりだった。しかし本当は表現と内容は不可分であって、もし僕が何らかの新しいものを表現しようとするなら、新しい表現の技術を必要とするはずである。したがって学校で学んでいる「技術」にはある内容がすでに含まれているということ………ある価値を、すでに過去のものでしかないアカデミックな価値観を学んでいるのだ。それは常に新しくあろうという芸術家の精神にとって異質な「技術」ではないのか?
 結局この発想は、徐々に僕を「芸術」の「学校」というものはあり得ない、という考えに導いてゆき、美術大学への進学に対する興味を失うことになっていった。
 また、ベルグソンは種の進化について「新しい環境に果敢に挑戦した結果おこった、その環境に適応するための何らかの生物の機能、形態上の変化。」であるという意味のことを言っていた。かれはダーウィンやメンデルの突然変異と自然淘汰の進化論を機械論だといって否定する。エラン・ヴィタル(生の躍動)が環境に力を及ぼそうとした、その働きかけの結果が生物の進化だというのがベルグソンの考えだった。環境の適応に満足した種は、進化の袋小路に陥ったが、新しい環境に果敢に挑んだ種は、その新しい環境に適応するために進化していったと言う彼の言葉を、僕はむしろ人間の生き方について語っているように理解した。つまり一瞬一瞬が新しい環境、状況への挑戦であるような生こそが生命そのもののあり方なのだ、とベルグソンは言っているのだ。
 僕はそれまでの自分の殻の中に閉じこもった生き方を恥じた。もっと積極的に自分のまわりの環境に働きかけて生きなければならない。それは生命に他ならない自分自身が心の奥底で望んでいたことではないのか? だからこそ僕は、周囲の人たちと楽しげにコミュニケーションしながら生きている他の学生たちを一方では軽蔑し、一方では憧れるという分裂した態度をとることになってしまっていたのだ。

 ベルグソンを読んで得ることになったいろいろな観念は、そのすぐ後に、岡本太郎の本を読んだことで決定的に自分の生きる信条にかわった。この頃、(たしか僕は19歳だった)ゆっくりながら何かが動き始めるのを感じていた。自分自身を発見し、おぼつかないながらも自分の足で歩きはじめたのだった。

仄暗い記憶の底から 6 バラナシの夜

 あなたは気を失ったことがあるだろうか? 僕はインドの聖地、バラナシで気を失った。ガンジスの滔々たる流れを前にして、インド世界の神秘に打たれたためだ………。なんてウソポ〜ン!

 蔵前仁一という人の書いた「ゴーゴーインド」という本を読んで、インド旅行の夢が僕の中に芽生えた。ヒッピーの憧れた国、カレーの国、その神秘の世界に触れてみたい。インドの旅は僕の生き方にとてつもない変革をもたらすに違いない……そう思ったのは嘘じゃない。
 でも実はもうひとつの目的があった。……ドラッグだ。インドではわりとカジュアルに大麻の吸引が行われているという。どのようなものなのかトリップしてみたかった。日本ではうかつなことはできない……しかしインドでなら……。

 インドに着いて数日後、意外に早くチャンスは訪れた。バラナシに「クミコハウス」という有名な日本人宿がある。ドミトリーで一泊100円ぐらいだったろうか。宿泊客はほぼ100%日本人なのだが、案の定そこに長逗留している日本人たちは夜になると車座になって大麻の回し飲みをはじめた。好奇心を抑えきれない僕は「まぜてもらっていいですか?」とかなんとかいいながら、彼らの輪の中に入り込んだ。
 たしかタバコをほぐして中に大麻を混ぜてまた紙で包んだものを吸ったと思う。「濃いコーヒーを飲みながらきめるのがいいんだ。」とかいって、僕の前にもきつそうなコーヒーが配られた。吸い方を教わって回ってきた大麻タバコを吸い込んだ。一回目、二回目……、何も変化がなかった。しかし三回目に回ってきた大麻の煙を吸い込んだ直後、急に目が回りはじめた。
 どうしたことだろう? これは耐えられないかもしれないと思って、僕は席を立って自分のベッドに行こうとした。しかし、吐きそうな気がしてトイレに先に行かなくては、と思い振り返って歩きはじめたが、スーッと意識が失われて床の上に倒れ込んでしまった。

 気が付くと同室の人たちが僕の顔を覗き込み、体をさすったり、舌を噛まないようにと僕の口に指を突っ込んでいた。結構こんな風にして死ぬやつがいるらしいのだ。あとから聞いた話では、僕は白目をむいて卒倒していたらしい。なんともぶざまな話だ。

 バンコクからカルカッタに着いて三日目にカゼをひいた。なれない旅で体力が落ちていたし、意外に十月のインドの夜は寒かったのだ。熱っぽい体で二等寝台車に乗ってバラナシに到着し、宿の主のインド人のおじさんに医者を紹介してもらい、とてつもなく強力だというインドの薬を処方してもらっていた。普段から酒もタバコもやらない僕が、体調不良の上、強力なカゼ薬を飲み、濃いコーヒーをすすった上に大麻をすったのだ。考えてみれば無茶なことをしたものだ。

 薬物の世界に人並みの興味を持っていた。ヒッピームーブメントの時代からそこには反体制的なモメントがあったからである。しかし僕が旅で出会った薬物使用者たちは、みんな深みに欠けるというか、閉鎖的で、自分勝手な人たちのような気がした。なんというか僕の求める世界とは違うのだと、少しがっかりしたんだ。倒れた僕を介抱してくれた人たちには感謝しなければならないけどね。                                            


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。


 

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