泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

Category: フンデルトワッサー   Tags: 芸術  建築  思想  フンデルトワッサー  

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フンデルトワッサーの建築

『建築の医者』

われわれの家は、ながらく、おかしな考えを吹き込まれた都市計画ブランナーや凡庸な建築家によって建てられていた。家は病気になることはなかったが、病んだ家と見なされ、この世に生まれてきた。
われわれは、これらの何干もの家に我慢して暮らしていた。これらの多くの家は、無感覚で、情緒がなく、尊大で、無慈悲で、攻撃的で、神が不在で、のっぺりとしていて、不毛で、飾り気がなく、冷たく、ロマンティックではなく、個性がなく、ぽっかりと穴が開いているように空虚である。
それらは機能性の幻想でできている。そうしたことが、これらの建物の抑圧的な本質であり、その住人は通行人までをも病気にしてしまうのである。
次のようなことを考えてみよう。100人が住んでいる建物の前を、毎日10000人が歩いて、また車で通りすぎる。これらの通行人は住人と同じく………実際にはそれほどでもないかもしれないが………これらの、無慈悲な家のファサードの抑圧的な影響をうけているのだ。病院そのものも病んでいるのだ。
強制収容所やバラックのようなスタイルのビルディングが、若者が社会にもたらすはずのもっとも価値あるもの………自発的で個性的な劇造性………を破壊し、凡庸なものにしてしまった。
もし建築家がこの病気や病気のもとである建物を治せるのだとしたら、はじめからそんな建物は建ててはいなかっただろう。
だからこそ新しい専門家が必要とされているのだ。すなわちそれが建築の医者である。
建築の医者の唯一の仕事は、人間の尊厳を取り戻し、自然と人間の創造の調和を取り戻すことである。その仕事は、すべてをひきずり下ろすのではなく、ただ戦略的な観点にたって対象を変えることであり、大きな労力や責用がかかることもない。この仕事には、川筋を変えられた河川をもとに戻したりすること、あじけない平板なスカイラインに変化をもたらせること、でこぼこの起伏のある土地を改造することも含まれる。また、壁のひびと継ぎ目のあいだで芽吹いた植物の自発的な成長に手を貸すことも、建築の医者の仕事である。なぜならそうした植物は、誰の邪魔にもならない限り、窓に変化を与え角や緑に丸みを与えてくれるからである。
建築の医者はまた、より決定的な外科的手術の責任も負う。したがって壁を切り離したり、塔や柱を立てたりといった仕事もする。
われわれが必要としているのは、単に、窓に関する権利、草や樹木を屋根に植えること、木の間借り人を育て植え付けることを認めてもらうことだけなのである。
もし、さまざまな様式で窓が躍動するようにデザインすることが許されれば、ファサードやインテリアをできるかぎり不規則な要素で飾ることが許されたなら、家は蘇ってくるだろう。家は生命をもち始めるだろう。どんなに醜悪で病んでいようとも、あらゆる家は治療ができるのだ。

フンデルトヴァッサー



『フンデルトワッサーハウス』


『フンデルトワサー美術館』


『イン・デン・ヴィーゼンの中庭』


『ブルーマウ温泉保養村』


『ダルムシュットのウッドスパイラル(模型)』



 「装飾は悪である。」と語ったのはオーストリアの建築家・デザイナーであったアドルフ・ロースであったが、フンデルトワッサーは真っ向からロースに代表される近代建築の理念に反対する。したがって、フンデルトワッサーの建築は徹底的に装飾的なのである。一見無意味で、イレギュラーな形態によって彼の建築は成り立っている。
 直線的、機能的、画一的なモダンの美学へのアンチテーゼとしてのフンデルトワッサーの建築。アールヌーボーというかガウディ風の造形は、それはそれで面白い、とは思う。が、僕が気になるのはむしろ、植物と建築との絡み方だ。
 エコロジー的な発想がそこにあるのは間違いない。植物(生命)はコンクリートやレンガ、タイル、石などの硬い素材でできた建築物にからみつき、覆いかぶさってゆく。放っておけば植物は無方向かつ無秩序に繁茂し、人間の予想もしない形で成長し、堅固な建築物を飲み込んでゆくのだ。建築物と植物、一体どっちが主人なんだろう? 
 フンデルトワッサーは「壁のひびと継ぎ目のあいだで芽吹いた植物の自発的な成長に手を貸すことも、建築の医者の仕事である。なぜならそうした植物は、誰の邪魔にもならない限り、窓に変化を与え角や緑に丸みを与えてくれるからである。」と主張する。ほとんど手放しで植物的な生命のオートマティズムに従おうとする意志を感じる。きっと、生長した植物が、建築物を浸食し、破壊することになってもフンデルトワッサーは植物の側に立って、建築や住環境を再構成することを考えるのではないだろうか。
 このような一種独特なエコロジカルな理念が、モダンの美学に対してフンデルトワッサーが提出する回答であるように思う。それはシュルレアリスムが用いるのとは違った意味での「オートマティズム」、人間精神のというより、生命(自然)の「オートマティズム」とでもいうようなものなのかもしれない。

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フンデルトワッサーの言葉



「ポフツカワの木と移ろう恋 パースでの一週間」

『潔癖症』

潔癖症は我々の交明において典型的な兆候だ。かつては、不潔と不適切な衛生が病気や死の原因となった。今日では、病気は過度の殺菌状態によって引き起こされている。
有機的、一見無秩序なもの、変化、人間の制御できない創造性や自然の植生は、汚らわしいもの、無秩序、危険なものとみなされる。
過度の殺菌状態は死を招く。洗剤産業や圧力団体はテレビやメディアで好き勝手に間違った記憶を植えつけ、無節操な政治的プロパガンダで洗脳しようとしている。彼らは単純な人々や子供の最も基本的な本能に訴えかける。あなたのシャツは焼もちやきの隣人のシャツより白くなること間違いなしといった具合に。しかし、致死量の有害物質は我々の愛する人や自然を殺すという事実については語られない。我々は汚染と反汚染を同時に促されているのである。
反汚染は、汚染以上にますます危険になってきている。廃物は製品よりますます危険なものになっている。
我々の醜悪で無菌状態に近い団地には、すでに完全にきれいな窓を5回ずつ拭く女性がいる。これは嘆かわしく危険な潔癖症だ。
もし壁にしみがついたら、画一的で無菌状態に近い正面壁を守るために、正面壁全体が塗り直される。
悩みが生じるのは、普通の石鹸で洗濯したきれいなシャツに、しみがついていたときである。このしみはこのシャツを一般大衆のものと違ったものにしてくれた、という思いがけない幸運として歓迎するかわりに、直ちに、もっと危険度の高い有害物質を用いて取り除くのだ。さらに舗装の割れ目から生えてきた草や、植えていないのに勝手に生えてきた樹木に対しても、困ったことだと感じる。こうしたものを残酷に踏み潰したり引き抜いたりするべきではないのに、実際はそうされている。
これらは我々の誤った文明の病理の典型的な兆候なのである。
過度の殺菌状態は死を招く。制御できない有機体の成長や変種や知性を使って保護することは、生につながる。
我々には美のバリアが必要だ。
美のバリアは規格化されていない不規則なものである。


『廃物のない社会に向けて』

もしはっきりとした良心をもちたいと思ったら、廃物のない社会のために戦わなければならない。我々は自然の客人であり、自然の法に従って行動しなければならない。使い捨ての社会に寛大であってはならない。人は、自分自身が世界を荒廃させてきた最も冠険な寄生生物であることを、認識しなければならない。地域を再生させるために、エコロジーの体系の中で自分の本来の場所に戻らなければならない。自然は何百万年にもわたって、沈積物や有害物質を、腐葉土層、植物の層、酸素の層で覆ってきた。その結果、人間は地球で生きていけるのである。しかし、恩知らずな人間はその後、丹念な宇宙的な配慮で隠されていた沈積物や有害物質を取り出し、地表に出してしまった。こうして、無責任な人間の大それた行動により、時間の始まりと同じように世界の終わりも作り出してしまった。
我々は自殺行為を行なっているのである。我々の都市は癌に似た潰瘍なのである。
我々はみな、ゴミに対して責任がある。ゴミは刑事犯罪にするべきだ。根本的にゴミのない状態にするために、ゴミを産出する業者、包装業界、ゴミの原因を作り出す人、ゴミを出す人は、厳重に罰せられるべきである。
我々は自分の国で生産されたものを食べず、食料を遠くアフリ力やアメリ力、中国、ニュージーランドから輸入している。自分たちの糞も保存しない。汚物を遠くへ遠くへと流していく。そうして川や湖や海を汚染しているのである。糞は我々の土地に還元されることもなければ、食料が生産された場所に還元されることもない。我々は食前・食後に感謝の言葉をロにするが、糞をするときは誰も感謝の言葉を口にしない。我々は大地の賜物である日々のパンを神に感謝するが、食べ物が糞になると、自分の糞に祈りを捧げることなどしない。廃物は美しい。廃物に感謝し、再び一体となるのは、美しくて楽しい行為である。



 どうやらフンデルトワッサーはエコロジストらしい。しかし、エコロジーというのは大切なことだとは思うが複雑な問題で、けっこうクリーンなイメージで語られることが多いけど、やっぱりそれはウソくさいと思う。きっとそれは緑にあふれた公園のような世界を目指すものではなくて、汚物や異物………無節操で無秩序なものへの親和性を回復させることなんじゃないだろうか………これを読んでそんなことをちょっと思った。

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フンデルトワッサーの横顔

 『1982年 パリにて』



こんな感じの人。


 『奥様』



5年間連れ添った日本人の奥さん。池和田侑子さん。けっこう美人だぞ!


 『ハングルグの線』



レルヒェンフェルト美術大学にて………これはすごいかも。鬼気迫る一品。


 『建築における合理主義に反対して裸の演説を行うフンデルトワッサー』


ミュンヘンにて。イヤ〜ン! こんなことまでなさってたの?



 『おまけ』


フンデルトワッサーとは全然関係ないんだけど、極東にある島国のとあるアーティストの作品たち。東京の下町の小さなアパートが彼のアトリエだった。なんか『神田川』が似合いそう。あなたはもう捨てたのかしら? 24色の油絵具………ああ、捨てたさ! ………なんか文句あっか?

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タシスム讃



 「闇の中に咲くあだ花というイメージは、彼の絵のみでなく、彼の存在をも意味する。オーストリアの世紀末の画家、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレの影を背負って、現代に生きる画家としてのフンデルトワッサーには、あだ花という言葉が一番よく似合っている。」 池和田侑子『闇から生まれた色』

 フンデルトワッサーの絵に、エゴン・シーレとパウル・クレーの影響があることはすぐわかったけど、シーレよりも純粋で、クレーよりも生命力がある、と僕は思った。

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大きい道


     拘束されるな
     追従するな
     定規で引いたものには不信を
     直線は胸に抱くな
     個性的であれ
     自由であれ
     創造的であれ
     そして何よりも色彩豊かであれ
     そうすれば何者にも脅かされぬであろう
     なぜなら
     そうしてこそ
     打ち負かされることも
     打殺されることもないからだ

      フンデルトワッサー

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
 連絡先 araiken#mac.com #を@に置き換えてください。



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