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泥沼通信

祭りの戦士 @ ไม่มีเมียไทยแล้ว

 

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生(=文化)の哲学

 ニーチェの哲学は「生の哲学」なんて呼ばれているが、彼の哲学はすべて文化論だと考えたほうがわかりやすいのではないかと思う。まあ、生は文化であり、文化は生の謂いであるのなら当然のことではある。ただし厳密にいえばニーチェの全哲学は、単なる文化論ではなく図らずも「高級文化」論すなわち「芸術」論になっている。処女作『悲劇の誕生』はまさに芸術論なわけだが、その大きな欠陥と思われる部分も晩年のニーチェ思想の中に(のちに自己批判を行っているにもかかわらず)発展的に現れている。欠陥とは「芸術」という文化領域の発生に関わる。問題は高級文化である「芸術」は、「低級」な生=文化を措定し下方へ排除するとともに立ち上がる、という振る舞いの中にある。この振る舞い──文化とはそもそも高級なものでなけれならないという偏見(すなわち「卓越」への志向)──がニーチェの生と哲学をも貫いている。そんなわけでニーチェの哲学=文化論は「高級文化」論すなわち「芸術」論にならざるをえないのだ。実はこうしたニーチェのスタンスは、今日のアートワールドを形成するモダニズム/ポストモダニズム系の文化批評をも貫いているのであって、ニーチェの思考の欠陥の指摘はそのまま現代文化の状況や問題の把握につながると考えられる。
 ニーチェのギリシア物語の中には、アポロン、ディオニュソス、ソクラテスという3つの主要プレーヤーが登場する。これらのプレーヤーたちが何を意味するのか、はっきり言った研究者はいるのだろうか。少なくとも私は知らないのだが、私なりに解釈の筋道を示したい。


竹田青嗣『ニーチェ入門』より

 まず、(以前にも書いたが)アポロン的なもの、ディオニュソス的なものという、概念が、二つの異なる問題系の概念の対を重ね合わせてできた混乱した概念であることを指摘しなければならない。一つはショーペンハウアーの芸術論由来の「表象/意志」の対立をそれぞれ「アポロン的なもの/ディオニュソス的なもの」と言い換えたものであるのだが、もう一つ、バッハオーフェンという人に触発されてたどり着いた「秩序/混沌」という社会学的な対概念をも「アポロン的なもの/ディオニュソス的なもの」とニーチェは称しているのである。これらは重なるようでいて大きくずれた対概念である。さらにニーチェは前者を「夢/陶酔」「造形芸術/音楽」という対概念に読み替えたし、後者は「スタティック(静的)/ダイナミック(動的)」という対概念に通俗化されてきたこともあって、芸術のジャンルやイメージの性格といった狭い意味での美学的問題に矮小化され、『悲劇の誕生』が孕んでいる政治性が陰に隠れてしまっているのだ。こうしたニーチェ自身の混乱を取り除けば、後者の「秩序/混沌(反秩序)」という対概念こそが重要であることが見えてくるはずである。『悲劇の誕生』の政治性をはっきりさせるためには、ニーチェの考案した「アポロン的なもの/ディオニュソス的なもの」という文化の二つの側面を言い表す対概念は、前者を捨象し、後者の社会学的な対概念をより先鋭化させ、「卓越(distinction)/至高(souverain)」の対だと言い換えるのがいいと思う。「卓越」と「至高」というブルデューとバタイユから拝借した言葉は、日本語の字面だけ見る同じような意味にしか見えないが、全く異なる概念である。
 「卓越」の文化の主体は基本的には「個人」である。それに対して「至高」な文化の極限は、忘我、陶酔の状態であり、個が消失した「個体化」以前の状態である。前者は天才(という卓越した個人)によってつくられる文化のあり方であり、後者は祭りのように万人によって高揚の瞬間が生きられる文化のあり方だということになる。この対概念はショーペンハウアーの「個体化の原理」というカント流の図式の読み替えから生じてきたものだが、重要なことはこれが生=文化の二つの評価の仕方に関わる対概念に変形しているところにある。
 「卓越」は他者目線による個の比較によって評価される。個と個の差異においてより卓越した文化的な表現の技術、洗練、配慮を持つ個が価値を持つとされる。評価する他者は誰でもよいわけではなくて、そうした比較を可能とする評価軸を理解し内面化した権威でなければ説得力を持たないだろう。「卓越」の価値は権威の視線によって認められることが必須であり、認められなければ表現者本人がいくらその価値を主張しても「独りよがり」であるとしか見なされないだろう。一方、「至高」な体験は極限的には忘我の状態なので洗練への配慮自体がまず消失している上、比較されるべき個が集団的な陶酔の内に埋没してしまっているため、外部からの他者目線による比較に意味がなく、評価軸自体が存在しない状態なのである。「至高」な体験の価値は、それを生きる人々が内面から感じる以外にない。まさにブランショが内的体験について言ったように「体験自体が権威」なのである。
 この生=文化の価値評価の二つのあり方は、他人は認めず鼻で笑うが、自分では意味のある行為だと確信している、とか、全く売れないが俺はすごい作品を作り上げた、など二つの価値評価の在り方が交錯する場面において誰でも経験しているはずである。こうなってくると、「アポロン的なもの/ディオニュソス的なもの」の内容が「スタティック(静的)/ダイナミック(動的)」という通俗的理解はおろか、「夢/陶酔」「造形芸術/音楽」に例えたニーチェ自身の性格づけからも大きく離れてしまったように見えるが、(こちらでやや詳しく書いたが)ニーチェのテクストを追ってゆけば正当な解釈であることがわかると思う。そしてこの視線の交錯におけるニーチェのスタンスに、ニーチェの生と哲学の構造的欠陥とでもいうものが隠れているのである。

 例えばニーチェの『悲劇の誕生』でディオニュソス的文化のイメージをギリシア外部の蛮族の民衆の祭りに託して描いた以下の件を見てほしいのだが、、、

「 、、、ディオニュソス的なものは、やはり<陶酔>にたとえてみるのがわかりやすい。どの未開民族の賛歌にも歌われているあの麻薬の作用によって、あるいは自然全体を歓喜でみたす春の力強いおとずれによって、ディオニュソス的な衝動がめざめ、その高まりとととに、個人的、主観的なものは完全な自己忘却へと消滅してゆく。中世のドイツでも、民衆はこうしたディオニュソス的なエネルギーに駆りたてられて歌いだし、踊りだし、みるみる大きな集団となって村から村へとおしよせた。聖ヨハネ祭や聖ファイト祭の日に乱舞する群集のありさまは、古代ギリシャの酒神祭の合唱隊(コロス)を彷彿とさせる。この合唱隊の前身は小アジアにあり、その出自をたどれば、はるかバビロンへ、さらに狂乱のサカイエン祭へとさかのぼる。こうした狂乱現象を「民衆病」として嘲笑し、あわれむように顔をそむける連中がいるが、それは彼らが未熟だから、あるいは単に愚鈍だからにすぎない。彼らは自分たちこそ健康だと思いこんでいるのである。しかし、彼らには思いもよらないことだろうが、ディオニュソス的な熱狂者のわきたつような生が目のまえを嵐のように通りすぎてゆくとき、「健康な」彼らの方こそ死者や亡霊のように青ざめてみえるのである。 祭りにみられるディオニュソス的なものの魔力によって、人間と人間との絆が復活するだけではない。人間に疎外され、人間と敵対していた自然、息子に踏みつけられていた母なる自然が、人間という放蕩息子と和解の宴をひらくのだ。大地がすすんで供物をささげ、岩山や荒野の猛獣たちがおとなしく歩みよってくる。ディオニュソスの山車(だし)には野草や花輪がふりそそぎ、その山車を豹と虎とがひいてゆく。ベートーヴェンの『歓喜の歌』を一幅の絵画にしてみるといい。そして、もろびとがおののき、ひれ伏すときも、ひるむことなく想像力をはたらかせてみよ。するとディオニュソス的な世界がみえてくるだろう。そこには、もう奴隷はいない。その時々の気まぐれな事情や「おしつけがましい慣行」で人間同士を引きはなしてきた、あの厳しく憎悪にみちた境界線はいまや完全に消滅する。ついに世界調和の福音がおとずれ、だれもが隣人とむすばれ、和解し、溶けあったと感じるだけでなく、文字通り<ひとつ>になったと感じるのだ。<個体化原理>としての<目眩ましのヴェール>は切りきざまれ、神秘にみちた宇宙の本体である<根源的一者>のまわりを漂っているにすぎない。人間は歌い踊ることによって、自分がより高度な共同体の一員であることを表現しているのだ。彼は歩くことや話すことを忘れ、踊ることによってさらなる高みへ舞い上がろうとする。その身振りには魔法の力がみてとれる。いまや動物たちが口をきき、大地が乳と蜜をだすように、人間からも超自然的なものがひびいてくる。彼はみずからを神と感じ、夢でみた神々の歩みさながらに、いまや彼自身が高められ陶然と歩をすすめる。人間はもはや芸術家ではなく、芸術作品そのものとなっている。すなわち、この<陶酔>のわななきのうちに、自然全体の芸術的な力があらわとなり、真の実在である<根源的一者>は無上の歓喜を味わうことになる。もっとも高貴な粘土がここでこねられ、もっとも高価な大理石がここで刻まれる。その作品が人間なのだ。このディオニュソス的な宇宙芸術家の鑿(のみ)の音にあわせて、祝祭の町エレウシウスの秘儀の叫びがきこえてくる。」

 まさに民衆文化の個が消失する「至高」な体験が描かれているが、注目したいのは高揚する民衆たちから距離をとって眺めている外部のシニカルな視線の記述である。明らかにここでは生=文化の二つの価値評価の在り方の交錯が描かれている。このディオニュソス的現象を外部から「民衆病」として、つまり「低級」なものとして嘲笑するのが「卓越」の(アポロン的)視線である。ここでニーチェは至高=ディオニュソス的現象の側に立っていて、外部からのシニカルな視線を生気のないものと軽蔑視している。混乱したやりかたではありながらも「アポロン的なもの」と「ディオニュソス」的なもの」という概念でニーチェが提出しようとしていたのは、このような「卓越」と「至高」という生=文化の評価の2つのやり方の交錯なのだと思う。
 もちろん上の記述を読む限りニーチェにとって重要なのはディオニュソス的(至高)な価値評価であることは間違いない。ところがニーチェはこのユートピア的礼賛ともいえるディオニュソス的現象への思い入れを直後に180度反転させる。

 「 野蛮な祝祭の中心にあるのは、あふれんばかりの性的放埓(ほうらつ)であったし、その興奮の波はあらゆる家柄のちがいを乗りこえ、社会の神聖な掟さえのみこんだ。まさに自然のもっとも荒々しい野性が解き放たれ、ついにはあの欲情と残忍とが、おぞましく入り乱れることになったのだ。このごった煮は、まさに「魔女の秘薬」を連想させる。」

 つまり同じ民衆の祝祭を手のひらを返したように「卓越」の視線へ移動することによって蛮族の野蛮な風習すなわち「低級文化」として描き直すのである。 ついさっきまで死者や亡霊のように青ざめてみえるなんて評していた外部の視線へと寝返って同一化し、「民衆病」どころか欲情と残忍とが、おぞましく入り乱れることになった「魔女の秘薬」などと悪口を言っているのだ。この裏切りはいったい何なのだろう?実はその理由はすぐに明らかになるのであって、ニーチェのディオニュソス現象への思い入れは決して偽りではなく、アポロンとディオニュソスの結婚、すなわちギリシャ悲劇の根源を形作るものとして戻ってくるのである。この手のひら返しともいえる視線の移動とともにニーチェのギリシャ物語の中に立ち上がるのは、高級文化としてのギリシア文化=アポロン的文化=芸術という領域である。だだし、このアポロン的領域(卓越)は、ディオニュソス的なもの(至高)によって裏打ちされていなければ空虚だとニーチェは言うのである。ここにニーチェの晩年に至るまで変わることのないスタンスが現れている。ニーチェは基本的には高級文化(芸術)主義者、卓越主義者である。文化は民衆によって生きられるものではなく、天才によって創られるものだと考えている。しかし真の天才にはディオニュソス的(至高)なモメントが不可欠である。まさにディオニュソスなしにはアポロンは何物でもない、「至高」なき「卓越」など何物でもないというのがニーチェの考えである。
 このディオニュソス的なもの(至高)ががどのようにギリシャのアポロン的(卓越)な文化に入り込むのかについての考察が『悲劇の誕生』の前半部で行われる。至高によって裏打ちされた卓越、これがニーチェの愛するギリシャ悲劇でありワーグナーの楽劇である。そしてそれらは(ディオニュソス的な)音楽の精神から誕生するのだとショーペンハウアーの芸術論を使って説明されるのである。

 通常の理解(ニーチェ自身もそう考えていただろう)では、アポロンとディオニュソスの結婚の意味するところは、ギリシャ悲劇やワーグナーの楽劇を念頭に置いたショーペンハウアー流の「夢と陶酔」「表象的な芸術/音楽」の総合芸術的な結合ということになるだろう。もちろんニーチェの説明では、これらの要素を外的に貼り合わせたものではなく、あくまで陶酔的な音楽の精神から誕生するものではあった。しかし私はこれをバッハオーフェン流の社会学的解釈「秩序/混沌(反秩序)」「卓越/至高」の問題系で解釈し、『悲劇の誕生』というニーチェのギリシャ物語が孕む政治性を抉り出してゆくことにしよう(つづく)。


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『エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』 by三浦篤 


エドゥアール・マネ『老音楽師』(1862年)

アッサンブラージュ(寄せ集め)とイメージの等価性

 以上のように、この《老音楽師》は、過去や同時代の絵画や彫刻など多様な参照源に依拠しながら、十九世紀後半のパリ周縁部における現実的な場面を再構成してみせた作品なのである。 引用元のイメージ相互に何らかの直接的な関連性があるわけではない。しかしながら、この絵に対して、マネに特有の美術史からの過剰な引用があると指摘するだけでは決して充分とは言 えない。考察をさらに進めよう。
 この作品は結果として、引用の織物とでも言うべき性質を備えているが、より正確には、さ まざまな「モルソー(断片)」を集めて合わせる「アッサンブラージュ(寄せ集め)」の手法を用いたと見なせよう。つまり、マネはモルソーを合成してタブローに仕立て上げたのである。 断片となる要素は、古代彫刻から古典的な絵画、自作も含めた同時代の作品まで多岐にわたるが、そこには見逃せないポイントがある。参照源には実作品もあり得るが、多くの場合、複製画像を媒体としていたという点である。むろん、複製版画を通して絵画のイメージが流布する 現象は十九世紀以前にも存在した。しかしながら、美術館の整備が急速に進み、第一章で述ベ たように、シャルル・ブランの美術全集が出版され始めたこの時代は、複製版画を通して特定の名作をうやうやしく引用する段階から、体系化された膨大な画像のアーカイヴから任意のイメージを自由にピック・アップして、大胆にコラージュできるような段階への移行期に当たっているのである。写真が美術品の複製媒体になり始めるのも時期的にちょうど符合する。ベンヤミン風に言えば、複製技術時代にアウラを喪失した美術品は、画家たちのニーズに応じて提供されるイメージの貯蔵庫に収まることになるのである。
 さらに踏み込んで考えると、マネがこのような歴史的条件を利して、大胆かつ自在に形態をアッサンブラージュし得たのは、その前提としてイメージの等価性をいち早く認識していたからだと思われる。おそらくは、複製画像を介してあらゆるイメージが相対化され、同質化することにひときわ敏感であったマネは、最終的には、起源を問わずあらゆるイメージを同一次元 で操作し、絵画を作り上げる試みにたどり着いたのではなかろうか。その作画法にはほとんど暴力的とでも言うべき過激さ、無頓着さがあり、単なる引用を超えて、本来並置し得ない出自の異なるイメージの断片を強引に接合するところに真骨頂が見られると言ってもよい。したがって、マネの「レアリスム」とは単に写実技法の問題ではなく、卑近な現実の導入という次元にも留まらない。典型性を帯びた既存の形態のストックに逆に現実を当てはめること、誇張して言えば「活人画(タブロー・ヴィヴァン)」のごとき人工的な現実感を創出することを意味するのである。ジャン・クレイの言葉を借りるならば、「文化から自然を創り出す」ようなタイプのレアリスムにほかならない。
 こうして出来上がった作品は、もちろん伝統的な画面構成とは異質である。平面上にモチーフを羅列した、ある意味まとまりのない構図であり、画面右端で半身に切り取られた人物が、 完成した作品自体の断片性を示唆するのも興味深い。言うならば、《老音楽師》はモルソー(断片)をまとめあげて逸脱のタブローと化しているだけでなく、同時にそのタブローにモルソー の性格をも付与している、総体として脫構築された作品なのである。(三浦篤 『エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』)



 このマネ絵画の分析で、三浦篤氏はもうほとんどマネがパロディ画家であると言ってるも同然で面白かった。バタイユのマネ論も(沈黙だの不在だのとわかりにくいが)マネの絵画がモンタージュ(三浦氏はアッサンブラージュという言葉を使っているが)によって作られた、「本来並置し得ない出自の異なるイメージの断片を強引に接合する」ことによる芸術の格下げを意図したパロディ絵画であることを事実上指摘するものである。これらは印象派の先駆けだとか、マルローやフーコーのマネ論のようにフォーマリスティックなモダニズム絵画のパイオニアとして解釈するのとは根本的に異なるマネ理解である。つまりモダニズム系批評がマネを芸術の変革者(=反アカデミズム)として解釈するのに対して、三浦氏やバタイユはマネを、反芸術=芸術の破壊者として理解しようとしているのである。というのもパロディ(格下げ)とは基本的に「芸術=アポロン的領域」の技巧ではなく、「芸術外=ディオニュソス的文化」に典型的な手続きだからである。
 ペーター・ビュルガーは、ダダ・シュルレアリスムやロシア・アヴァンギャルドなどでよく使われたモンタージュの美術史上の最初の例を、キュビズムのパピエ・コレに見出している。だが実際にはさらに半世紀以上遡ったマネによってすでにモンタージュは駆使されていたのである。したがってマネは印象派などはるかに飛び越えてほとんどダダ的である。それどころか「体系化された膨大な画像のアーカイヴから任意のイメージを自由にピック・アップして、大胆にコラージュ」したというマネの手つきはほとんどポストモダンチックですらあり、村上隆も真っ青のスーパーフラット絵画だというわけである(注)。

 マネの絵画の特異性やその面白さを伝えたいのであろう、三浦氏は前書きの部分にこう書いている。

 ここで敢えて言い切ってしまおう。エドゥアール・マネを中心に据えた西洋絵画史を書くこ とができると、私は常日頃から思っている。大げさな言挙げと思われるかもしれないが、本書のねらいは一般読者にも分かる形でマネの生涯や作品を紹介することにはとどまらない。マネ の画業を理解することが西洋絵画史を理解するに等しいことを論じることにあるのだ。なぜなら、マネの作品は西洋絵画の多様な伝統を吸収し、これらを素材として組み替えて、それまで にない新しいタイプの絵画を作り出し、後世に多大なる影響、インパクトを与えたからである。 古典的な西洋絵画の流れがマネの中に集約される一方で、マネから始まる近現代絵画はいまだにマネが切り開いた圏域を蛇行していると言ってもよい。まさに絵画が伝統から近代へと転換する要の位置にいた画家マネが、十九世紀後半のフランス絵画史において決定的な仕事を成し遂げてしまった。それはある種の美的な革命、芸術の根本的な変革なのだが、印象派の革新の ように必ずしも見えやすいものではない。いやむしろ、直近の世代である印象派が成し遂げたことはある程度マネに先取りされてもいて、印象派はマネが切り開いた道を踏まえてさらに進 んでいったと捉えるべきなのである。マネの作品の持つポテンシャルは計り知れず、本書では、 その大きさ、広さを大胆に示してみたい。西洋絵画史においてこのような位置にいる画家は誰一人として他に見当たらないのだから。



 三浦氏のマネへの思い入れはよくわかるのだが、これを芸術・美術史上の革命や変革として称賛するのは、マネの絵画をパロディ(格下げ)として理解しようというモダニズムを乗り越えた解釈に反するものだろう。というのも「格下げ」は、人類のあらゆる(ディオニュソス的な)文化の一面であり、基本的な手続きであって、実は珍しくもなんともないものだからである。むしろそれは支配階級の(アポロン的な)「卓越」の文化である芸術よりも、民衆文化にわかりやすく現れていた。日常的な秩序(権力によって組織された生産の体制)が侵犯され解体される局面では、体制において神聖で価値あるものが、物理的にまたは象徴的に格下げを被る。原初的な祝祭につきものである供犠においては、生贄の家畜(ときには人間の命)が、単なる血と肉の塊へと「格下げ」される。中世のカーニヴァルなどでよくみられる、王や聖職者がいるべきところに子供や驢馬を置いた儀式なども象徴的な「格下げ」の手続きである(象徴的な「格下げ」が通常「パロディ」と呼ぶばれるものであろう)。こうした格下げの手続きとともに、日常的な秩序には亀裂が走り、生産的な秩序の支配や労働からの解放とともに生=文化は活力ある絶頂の時を迎えるわけである。芸術という支配階級の(アポロン的な)文化に活気を与えているのも、結局はこうした(ディオニュソス的な)格下げの手続きであって、芸術が興隆する時期にはなにがしかの形で「格下げ」の運動がその領域に侵入していると考えるべきである。例えばルネサンス期の文化の興隆は「格下げ」の大規模な侵入によるものと解釈すべきだと思う(バフチンのラブレー論はそうしたルネサンス一面を掘り下げたものなのだろう)。ニーチェが「ディオニュソスなしではアポロンはなにものでもない」と言っているのはこの意味でである。

 マネの「格下げ」にはいくつかの側面がある。1つは古典絵画の構図や断片を流用し、現代の市民生活の描写とモンタージュすることによる、古典的伝統(アカデミズム)の格下げ。2つ目にそうしたパロディ絵画をサロンに展示するという、芸術という公式文化の空間(制度)の格下げ。そして3つ目に、生活に何ひとつ不自由のないブルジョワジーであったマネ自身を、芸術の冒涜者というブルジョワ文化に対する犯罪者的な立場へと(生贄に)差出すという自分の存在の格下げを行っている。肝心なのはこうしたマネの「格下げ」の活動が、サロンの炎上案件になっただけではなく、当時のアートワールドを大きく揺さぶったという事実だろう。つまりマネの絵画によって芸術の秩序に亀裂が走り、アートワールドを舞台にした祭りが開始されたのである。この祭りは芸術というアポロン的(卓越)領域のディオニュソス(格下げ)的侵犯による乗っ取りによって成り立っているのである。さらにこの祭りの炎はマネに刺激を受けた後輩たちに引き継がれ、印象派からダダ・シュルレアリスムに至るまで格下げ運動が継続された。モナリザにひげを付け加えたり、展示会場に小便器を置いたデュシャンのやっていることは、マネの活動の延長線上で行われた古典主義(アカデミズム)や公式文化(芸術)の空間(制度)の格下げ以外の何物でもない。
 この祭り=侵犯行為に対してアートワールドの権威たちは、芸術=卓越の文化の覇権を取り戻すべき美の規範のドラスティックな書き換えによって対応することになった。文化の自律化の波からスペクタクルの力を守り再生するために、「格下げ」の「卓越(格上げ)」化(=ディオニュソスのアポロン化)を図り、反芸術という文化スクウォッターたちを芸術へと再回収するため、従来のアカデミズムの規範を根本的に組み替えてモダニズムの規範を組織し始めたのだ。これによって、犯罪的な格下げ行為は、「卓越」した美の変革行為へと、祭りの陶酔は真剣で厳粛な美の探求へと解釈しなおされることになった。この書き換え作業は、反芸術の展開を追いかけながら、19世紀の中ごろから20世紀の前半まで1世紀近くを費やして遂行された。その結果、罵詈雑言を浴び嘲笑され無視されていたマネ以降の反芸術の面々は、徐々に名誉回復され画期的な美のイノベーターたちとして公式に認められるようになってゆく。19世紀、マネ、ゴッホ、セザンヌの時代には、アートワールドのこうした名誉回復は当人たちが没したのちに行われた(マネやゴッホはある意味無条件に自分を生贄に捧げる結果になってしまった)が、20世紀に入ると反芸術の侵犯行為は生前から芸術として認められ、モダニズムの巨匠、卓越した天才前衛芸術家として持ち上げられることになる。
 (ディオニュソス的な)祭りは基本的に非個人的な性格を持っているが、マネにしろセザンヌにしろサロンでの成功、芸術家(個人の卓越)としての成功を熱望していたし、その点ダダ・シュルレアリストもあまり変わっていない。そうした曖昧さがあだになって「格下げ」によって切り開かれた祭りの空間は、芸術という「卓越」の文化の領域へと再回収されてゆくことになった。祭りは終わって、戦後のモダニズム・ポストモダニズムのアートはこの「卓越」の領域をはみ出すこともなく展開されてゆくことになる。

 つまり、マネの絵画も西洋絵画史上の革命などではなく、(確かに写真や美術館のような近代技術や制度を転用するという方法を編み出したのは彼だが)歴史上、世界中で毎年毎年、幾度となく繰り返されてきたはずの「格下げ」、すなわち「アポロン的領域への侵犯」という「ディオニュソス的な文化実践」なのである。いけないのは、これを芸術だけの問題として、「芸術の根本的な変革」ととらえてしまうこと、芸術という支配階級の文化(アポロン的領域)が、自己変革して生み出したものと解釈してしまうことである。これは「格下げ」を「卓越」へと、アートワールドへの侵犯行為を権威への隷属へと、自律を疎外へと解釈することへつながってしまうことになる。自律的な生=文化は芸術の粉砕としてしかありえないのだ。

(注) ただしマネのような反芸術とポストモダニズムのアーティストたちの違いは、前者が芸術という文化領域そのものへの侵犯であるのに対して、後者はモダニズムという規範への反抗であって、芸術そのものを格下げしようとする志向は希薄である。マネは、サロンで成功し美術界で認められることを熱望していた人であるが、その活動はむしろ美術界に炎上をもたらし、四方八方からの罵詈雑言と嘲笑に自身も傷つくことになった。芸術を扱き下ろすことをしているわけだから(マネからダダ・シュルレアリスムにいたるまでの反芸術が)多かれ少なかれこうした不遇をこうむるのはある意味当然の結果である。対してポストモダンのアーティストたち(例えばウォーホルでも村上隆でもダミアン・ハーストでもいいが)が、このような引き裂かれた状況とは無縁で商業的に成功すらしているのは、芸術の枠組みに従順であるが故であろう。ポップアートなどパロディ絵画に違いないのであるが、それが格下げしている対象はモダニズムという規範だったので、美術界(アートワールド)はそれなりに衝撃を受けたが、ポストモダニズムというモダニズム物語のマイナーチェンジバージョンを用意し、ポップアートを新しいアートとして受け入れ、成功者として美術史の1ページを飾らせて丸く収まっている。反芸術に対してアートワールドの権威が、100年をかけてアカデミズムからモダニズムへのドラスティックな規範の書き換えを行い対応せざるを得なかったのと比べると、ポストモダンの小さな反抗は与しやすいものだったことがわかる。それだけにポストモダン(といわれる)アートにはそれなりの面白さはあるが諸手を挙げて賛成する気にはなれない。

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私的言語

―現代アートが分かりません。

それは現代アートにおいて、感性的に訴えかけるというファクターが決定的なものではなくなったからです。美術であれば見ればわかる、音楽なら聞けば分かるという言い方が昔は通用しましたが今では通用しません。例えば現代美術家マルセル・デュシャン(1887~1968)の「泉」はただの便器なのになぜ芸術なのか、作品を見ただけでは分からないでしょう。しかしそれが分かれば好き嫌い以前に納得する、これはこういうものなのだと納得できます。これは広義の美術史、理論史の見取り図のようなものが頭にあって、それに照らして納得することです。

芸術家が実践するためには理論が必要です。例えば伝統的な富士山の絵を描いている人も絵画とはこういうものだという理論があり富士山を描いていて、同じく便器を出品する芸術家も理論を持っているわけです。その理論は理論書、論文の形で書かれていないかもしれないが、いずれも或る理論に則って作られています。その理論を全員が共有している場合には誰でも「見ればわかる」んですよ。しかしデュシャンのような人はその理論自体を変革しようとするわけだから、理論がどういう状態にあってどう変化しうるのか、変わろうとしているのかを認識していないと、なぜそのような作品が提示されたか理解できません。現代アートは理論を知らないと全く理解できないと思います。

―現代アートの展覧会を見ると、「何でもアートになる」という印象を受けます。

何でもアートだというのは、その通りでもあり、その通りでもありません。既製品でもレディ・メイドとしてアートになるし、非常に無価値な物でも手で作りアートと称すれば桁違いの価値を持ちます。例えばアンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス」は商業用コンテナの外観を木製合板にそっくり写したもので、元の箱との外見上の違いを全く持ちません。とはいえこのペンを「これはアートです」と言って出品しても、そのように主張することは自由だけれども誰も見向きもしないでしょう。それがなぜアートなのかが問題です。

―誰かに認められることが重要なのですか。

それは絶対重要です。「私的言語」という、たった1人が用いる自分しか理解できない、他の人とはコミュニケーションが取れない言語があります。芸術について私的芸術というのが成立するかと言えば、「やりたければどうぞ」ということになり、その個人の問題を超えることはありません。便器にせよウォーホルの「ブリロ・ボックス」にせよ、それは既にある種の多数決原理が働く共同体的な現象なのです。これらの場合には積極的に認める人がおり、理論的な確信を伴っています。例えば「ブリロ・ボックス」を作ることは、今まであった芸術とは違う考え方、つまり違う理論に則った芸術を作るということになります。鑑賞者側もやはり理論を立ててこれは芸術なのかどうかを論じないと評論になりません。理論なく描かれたものというのは文字通りの意味において認められないし、重要な影響力を持たないでしょう。

―しかし、たとえば動物が理論なく描いた絵も絵として認められているような気がします。

評論とか判断というのは、誰がそう言っているのかが問題なわけです。例えば野球界の権威が動物の絵に対し発言しても素人が言うのと同じです。それぞれの領域において、有意義なことを語ると社会に認識された人の発言が重きを為します。単純な多数決や1人1票というわけではありません。

哲学者アーサー・ダントーは、何が芸術であるかはアートワールドが決めると言いました。アートワールドというのは芸術の世界が運営される基礎、そうした暗黙の理論に基づいて運営されている世界です。そこの住人達とは芸術に関わるありとあらゆる人々で、その外縁は非常にぼやけていますが美術館の学芸員、美術評論家、芸術家、画商といった人達を含むのは間違いないでしょう。彼らは自分たちが則り了解している「芸術とはなにか」という概念を持っており、何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう。ダントーは同時に、アートワールドは歴史的に変化するということを非常に重視しています。例えば「ブリロ・ボックス」は100年前に作られなかっただろうし、作られても受け入れられなかったに違いありません。「アートはアートワールドが決める」という定義は全くのトートロジーです。けれども形式論理学のテーゼを検証しているわけではないので、そうとしか言えないと彼は考えたのでしょう。

佐々木健一 「芸術は終わったのか?」(2011.09.16)




 わかりやすいというより平べったい受け答え。ここで言ってる、何がアートであって、何がアートでないかを決定する暗黙の理論というのは、現代においては、いわゆるモダニズムの「物語」のことである。この物語をちゃんと理解しないと現代アートはわかりませんよ、と、逆に言うと、この「物語」を受け入れれば難解な現代アートがよくわかりますよ、というわけだ。この「物語」を作り出し、維持しているのがアートワールドなる権威集団である、といっても秘密結社のような実体があるわけじゃなくて(原発事故やパンデミックで浮かび上がってきた「原子力村」とか「感染症村」みたいな)、漠然とした利害集団みたいなもので、「芸術村」と名付けたほうがいいんじゃないかと個人的には思っている。他人事のように語っていいるが(まさか自覚がないわけではないだろうが)、この佐々木健一氏のような美学者ももちろん「芸術村」を構成する権威の一人であり、モダニズム物語の創出・維持に加担している当事者なのである。
 というわけで、「なんでもあり」の現代アートでも、ある作品なり、制作のアクションなりが芸術と認められるためには、それがモダニズムの「物語」に則っているかどうか、やはり「芸術村」の権威のジャッジを受けなければならない。モダニズム物語に寄与することのない作品は「私的言語」すなわち「独り言」「独りよがり」の非芸術であるというわけである。「なんでもあり」ということが問題になること自体、芸術という文化の領域にはクリアしなければならない規範、満たさなばならない要件があることを示している。祭りやパーティやイベントみたいなもので楽しむことも文化であるが、楽しければ、面白ければ何でもいいというわけにはいかない厳粛さがあり、高級で、公的・公式的な文化が芸術なのである。
 芸術だといえばそれだけでもう素晴らしい文化ように思われているが、常々主張している通り公式文化であるアート(芸術)とは、基本的に権力の、権力による、権力ためのアポロン的文化領域(スペクタクル)である。体制権力の文化は、沈まぬ太陽のごとく自らの存在の永続性、正統性を誇示する、規模と洗練において卓越した文化である。権力=権威は芸術/非芸術の境界線と芸術的価値の高低の序列を比較する物差しを創造することで「卓越」そのものを可能にし、卓越した文化的技量を持つ個人をその力の及ぶ領土内から美の生産者=芸術家として認めチョイスする。と同時に、それ以外の人は受動的な文化の礼拝者、消費者として観客化し、演者である芸術家に向き合うという構図が生まれる。また、こうした芸術(卓越の文化)の領域の立ち上げと同時に、祭りやカーニヴァル的な非個人的で万人によって生きられる民衆文化は野卑な風俗として、まさに「私的言語」として境界線の外へと、非芸術として放逐される。芸術に視線化集中すればするほど、民衆は非個人的な生きられる文化から疎外され、孤立した文化の消費者になってゆくだろう。つまり芸術とは支配的な体制が私たちを(ディオニュソス的な)生きられる文化から疎外するための象徴闘争装置なのである。
 それにしてもこの「私的言語」という言い方にはカチンとくる。だって19世紀のアートワールドは、マネや印象派、ゴッホなどを「私的言語」だとして嘲笑したり無視したりしていたのだ。当時はいまだ、歴史画や宗教画を古典的規範に従って描いたアカデミズムの「物語」がアートワールドの主流ストーリーだったので、いまでこそみんな大好きな印象派の絵など「壁のシミ」とかって評価だったのだ。それこそ「やりたければどうぞ」だったんだろう。ところが時代の変化とともに、それら新しい絵画を面白いじゃないかと愛好する人が増え、古典的絵画の技巧的卓越に退屈を感じだす人が増えるにしたがって、芸術村の権威たちも徐々に規範「物語」を再編し始め、20世紀中頃までには「モダニズム」の物語が「アカデミズム」物語にとってかわってアートワールドの主流ストーリーになっていったのだ。そんなわけで19世紀末の代表的「私的言語」ゴッホは、今や天才である。
 「私的言語」だなんて馬鹿にしてるけど、本当は芸術村の権威たちも芸術の領域への「私的言語」の侵入に衝撃を受け、事後的に大慌てで「物語」を作り替えた、というのが真実なんじゃないのか。文化に規範を持ち込むということは、文化の形式化をも意味するわけで、技術的な洗練とは裏腹に、権力の文化である「芸術」は形式化から逃れられない運命にある(19世紀の半ば、マネ以降の反芸術的ムーブメント、すなわち「私的言語」の「芸術」領域の侵入活動はのほうが、アカデミックな規範を遵守する美術──ブグローやジェローム、メッソニエというの画家たちの作品などは、超絶技巧であるにもかかわらず、退屈なものだった──などよりはるかに衝撃的で活力があった)。むしろ芸術は「私的言語」の領域から栄養をもらわないと枯れてしまう空虚な領域なのではないのか。少なくとも芸術村による20世紀初頭のアカデミズムからモダニズムへの「物語」の書き換えの一部始終を見る限り、蔑んでいるはずの「私的言語」の領域から文化的活力を簒奪するのが「芸術」(=芸術村)のやり口なんじゃないかと思えてくる。
 モダニズム物語の誕生は、「芸術村」の巧妙な簒奪の手管を示すもので、「私的言語」だと蔑んでいたはずの芸術領域のスクウォッター(不法占拠者たち)たちを、いつのまにか芸術のイノベーターに仕立て上げてるという方法でなされた。次々と侵入してきては居座ってしまう素性もわからぬ文化上の不穏な他者たちを、変革者だとしておだてて懐柔しつつ、スタティックな古典的規範を、たえざる自己変革(新しさ)=メタ芸術という規範物語へと組み換え、芸術の歴史は美的変革の歴史になって、よそ者の果実を自分たちで栽培してきたもののようにみせてふんぞり返っているのである。
 かつての美術学校では古典的規範の習得が学生の修行のすべてであった。デッサンの腕前こそ美術家としての成功の道だったわけだが、モダニズムの規範が浸透するにつれて、こうした修行の意義に疑問符がつけられるようになった。古い、固定的な理想美は、過去のものであり、新しく生産される美の座を降りたのである。またこの規範の更新によって、野蛮なそれこそ「私的言語」の極みとされていたはずのアフリカやオセアニアなどプリミティヴな文化が、前衛美術との類似によって復権されるという意外な副産物も生じた。そのかわりに大衆文化(文化産業)が、低俗なものとして「私的言語」的な位置に浮上してくる。売れるということを何より重視した金儲けのための商品としての文化を激しく嫌悪し、それによって芸術の領域の純粋さ、高級さを担保しようということだ。実際には芸術作品も商品だし、イノベーション(新しさ)の追及は消費市場でこそ行われているわけだから、「芸術」と「大衆文化」はどちらもおなじスペクタクルであるのだが。
 しかしこのモダニズムの規範は、ほどなく芸術村を構成しているインサイドの芸術家たちから反発と攻撃を受け始める。建築の領域では古いとされた過去の様式を積極的に再利用し始め(ポストモダン建築)、美術では大衆文化の表現を意図的に取り込み(ポップアート)、モダニズムの規範を見直す動きが登場した。とはいうものの、一見「なんでもあり」の芸術にたどりついたかのような、「ポストモダニズム」というモダニズム物語の修正版とて、芸術村の作り出した規範であるにはかわりなく、芸術と私的言語の境界線が消滅したわけではない。規範化はやはり形式化へと行き着かざるを得ないのであって、無限の自己変革という物語もやはりアカデミズム同様の退屈で空虚な公式文化に行き着かざるを得ないだろう。だから芸術村はアール・ブリュットとかグラフィティとかいった、アカデミズムやモダニズムの規範から外れた、本来「私的言語」と呼ばれるべき文化を「芸術」の領域へ引き寄せ、取り込み、なんとか芸術の領域を活性化したいと必死なのである。つまり、「私的言語」の反対語は「コミュニケーション言語」ということなんだろうが、「芸術」がコミュニケーションになるためには、非芸術である「私的言語」に依存しなければならないのだ。
 哲学者アーサー・ダントーの「アートはアートワールドが決める」という定義は全くのトートロジーだ、と佐々木健一氏はしれっと言っている。ギー・ドゥボールもスペクタクルのトートロジー的な性格について云々していたが、芸術もスペクタクルなのだから当然のことだろう。トートロジー=同語反復(アートとは何か? アートワールドがアートだといったものがアートである)ここでは「自己賛美・自画自賛」的なことを意味していると考えていいと思うが、要するアートワールド(芸術村)のしてることだって「独りよがり」でしかないと、村の住人自らが白状しているのだ。何のことはない、「私的言語」ってのは芸術外の生=文化のことかと思ったら、じつは「芸術」のことだったの? いやいや、トートロジー=同語反復だけで芸術の領域が成り立っているにしては、古代から現代までの美術史、芸術史(芸術の物語)は豪華絢爛な作品たちで埋め尽くされてね? トートロジーの空虚な領域がどうやってそんな豪華なストーリーをつくりだせるの? そりゃあもう、芸術村の権威たちが、自分が野蛮だとか「私的言語」だとかいっていた芸術外の領域から盗んできて、物語を捏造しているからに他ならない。


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自律美学

、、、なるものがあって、この「自律」が何を意味するかというと、芸術はかつて権力=支配階級に奉仕する美の生産であったが(他律)、権力への奉仕から離れ「美とは何か」、つまり「美」そのものを抽象的に問題とするようになった、、、この志向が芸術の「自律」である。例えばバウムガルテンの『美学』とか、カントの『判断力批判』のような考察が現れたこと自体が、芸術という領域の自律への動きを示しているというわけだ。
 この芸術の「自律」みたいな話はドイツの批判理論が、アヴァンギャルド=モダニズム(モデルネ)芸術を擁護するときによく出てきて重要な概念になっている。アドルノがその典型だと思うが、18世紀以降の自律美学の帰結──幾世紀にもわたって権力に愛された古典美からの自律──であるところのモダニズム芸術の領域にこそ資本主義の支配(文化産業)から自律的な(非隷属的な)人間性が息づいているのだという、左翼的な構図の中に「自律」が織り込まれているのである。これはグリーンバーグの『アヴァンギャルドとキッチュ』ような通俗的なアメリカのモダニズムとも構図を共有していて、一般的なモダニズムの物語になっている。
 だが批判理論系の理論家(アドルノ、ペーター・ビュルガー、ハーバーマスなど)の芸術の自律性の物語は、アヴァンギャルドの非隷属的、反体制的な本質を捉えそこねているどころか、それを権力=資本主義に奉仕する美の生産へと回収する物語になってしまっているのではないかと思う。というのも芸術の自律性の物語は根本的な欠陥を持っているからだ。どんな欠陥かというと、この「自律」への志向が、芸術(という文化領域)の歴史の中から生まれ育まれてきたというストーリーになっている点である。
 芸術が権力=支配階級に奉仕する文化であるという意味は、権力が被支配階級である民衆に自らの正統性、威信、優越を示す象徴闘争ための文化が「芸術」であるということであり、それが民衆の粗野な文化に対して洗練され、卓越した高級文化であるということである。つまり、芸術という文化領域は低級とされる(民衆的な)生=文化を下方へ、低俗な非文化(文化と認められない野蛮とか稚拙な事象)として排除することで作られた領域、高級文化とされるための要件を満たさない文化を一切捨象した領域であるということである。そうした氷山の一角のような高級文化だけを時系列順に並べて何々派とか何々主義とかの興隆、弁証法的発展の物語に仕上げたものがいわゆる芸術史であったり美術史であったりするわけである。
 批判理論がよって立つ芸術の「自律」の物語も、透明な上澄み液のような文化の上部構造のなかで純粋培養され、自己批判的なモダニズムの精神が自己展開してゆくかのようなストーリーを描いている。それは権力が文化と向き合う身振りと図らずも同形となってしまっている。例えばアドルノのどこか意地悪な文化産業批判は、モダニズム芸術の領域への愛と、その領域が成り立つために下方へ排除した大衆文化(文化産業)の領域への憎悪に根を持っている。ペーター・ビュルガーはアドルノ的なモダニズムを唯美主義として批判し、先鋭化させ、アヴァンギャルドの本質を(ダダ・シュルレアリスムを念頭において)、大衆の日常生活に芸術領域の「自律性」を介入させる生活実践だとした。これなど文化と政治の異種交配だという今日的な社会運動のあり方を彷彿とさせるが、逆に考えれば大衆の日常生活は文化的不毛の領域で、それだけに啓蒙的に生活を活性化するアヴァンギャルドの介入が必要だと考えていたことが伺える。いずれにせよ、批判理論の面々も実は、純粋な文化は芸術の領域にしかなく、その下には「蒙」が、文化的不毛が広がっているという権力の視線を共有しているのである。
 芸術の領域というものは、太古から時間的に継続している歴史的な実在ではない。(規範を作り出す)権力が、瞬間瞬間、絶えず、非文化を排除することによって立ち上げられ維持されている「物語」なのだ。したがってこの「物語」からの自律とは即、権力が、低俗とか野蛮として排除している生=文化の、この瞬間における復権を意味するはずである。いや、むしろこうした権力の「物語」の顛倒への意志こそが文化に活力を与えているその本質だというべきではないか(ニーチェがディオニュソス的なものという言葉で言おうとしていたのはこのことなのだろう)。アヴァンギャルドが行った試みとは、権力が作り上げていた物語=芸術の領域(アポロン的領域)を、その領域をスクウォットしつつ転覆させることであったのだ。その侵犯性こそが「自律」なのであって、それは決して芸術の領域の中で長い時間をかけて育まれ展開してくるようなシロモノではないのだ。
 もちろん批判理論の理論家たちもアヴァンギャルドの試みの中に「自律」を、反権力的な非隷属的な生=文化を見ていたはずだろう。だが彼らはそれを芸術への侵犯ではなく、芸術の中で自己展開し生長してきたかのように錯覚してしまった。ワイルドな転覆行為を、モダニズムというブルジョワ社会にふさわしい新しい美の規範、すなわち新しい権力の「物語」の創造という優等生の努力へと読み替えてしまった。結局それは芸術という権力の「物語」を更新すること──「自律」どころか権力に尻尾を振ることになってしまい、批判理論は左翼ということになってるけど、実は保守なんじゃね? という疑いも湧いてくるのだ。
 批判理論の方々にはできることならバフチンのラブレー論でも読ませてあげたいものだ。支配階級の公式文化(芸術)がいかに厳粛でつまらないものであるか、形式化してやせ細ったものであるか、それに対して支配階級が下に見ている非公式な民衆文化がいかに生気にあふれたものであるか。ラブレーの文学はもちろん今日「芸術」とされているが、その活力をいかに民衆文化に負っているか。アヴァンギャルドの試みが中世のカーニヴァル同様にパロディ的な技法で成り立っているのは決して偶然ではない。権力の紡いだ物語にテコ入れなんかしてないで、これくらいひっくりかえして描いてくれなければ左翼失格だろう。
 ハーバーマスには『未完の近代(モデルネ)』というアヴァンギャルド論があり、「自律」の物語は芸術の領域だけではなくて、「真・善・美」の三領域でそれぞれ展開してきたという壮大なストーリーになっている。ここまでくるとモダニズム(モデルネ)論は妄想の域に達しつつあるのではないかと思えてしまうが、このモダニズムのプロジェクト(三領域の「自律」の物語と、それを大衆の生活世界へ浸透させる啓蒙のプロジェクト)はいまだ未完であり、終わってもないのにポストモダニズムとは何事だ、ということらしいのだ。まあいずれにせよモダニズム(さらに新バージョンに更新された物語であるポストモダニズム)論なんてものは権力の犬どもに語らせておけばいい。そろそろこんなおとぎ話は葬り去って、私たちのもっと面白い自律の物語にとって変えたいのだ。


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久々にニーチェの『道徳の系譜』第1論文なぞを

パラパラと読んでみたが、これ文化論として読めるなあという感想。貴族的な「良い/悪い」という価値のでき方と、僧侶的なルサンチマンによる「良い/悪い」という価値のでき方の対立ってのは、『悲劇の誕生』におけるディオニュソス的とアポロン的な文化のあり方の対立の変奏なんだろう。前者は内面から、体験そのものの充実から「よい」が生まれるが、後者は他者との比較によって「良い/悪い」が決まってくる。ニーチェはまず他者を「悪い」と評価し、反動的に自分を「良い」と評価するからくりを指摘するが、肝心なのは他者との比較によって自分の生を評価するあり方である。もちろんニーチェは貴族的な生の価値の評価の側に立っているわけだが、問題はニーチェがそれを高貴なありかただとして、高低の比較、すなわち卓越の問題へともう一度すり替えてしまうことだろう。貴族的な「良い」という感情は「高い」という感情だというのだが、このへん『悲劇の誕生』におけるニーチェの卓越主義者ぶりをそのまま晩年になっても引きずっている。
 ニーチェが実際どう考えていたのか知らないが、この貴族的/僧侶的(ディオニュソス的/アポロン的)という見方は、あくまでもわれわれの生=文化の評価の2つの側面をとらえた概念装置なのであって、現実の貴族や民族、ユダヤ人などとして実体化させて考えるのはもちろん誤り。


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荒井賢 (Ken Arai)

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 生年月日 1964年2月15日
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