泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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メモ Crack Capitalism ジョン・ホロウェイ

 政治的なものは、われわれの怒りを呼ぶが、われわれの注意を、為すことにかんする根本的な問いから逸らす。国家は、まさしくその存在にもとづいて、事実上こう語りかける。「私は社会的結合の力であり、社会的決定の中心である。もしお前たちが社会を変えたいのなら、お前たちは私に注意を集中し、私の統制権を掌握せねばならない」。これは事実ではない。社会の真の決定要因は、国家的なものの背後に隠れている。それはわれわれの日々の活動が組織化されるやり方であり、抽象的労働の、つまり価値、貨幣、利潤の命令への、為すことの従属である。結局、国家の存在の基礎をなすのは、この抽象化である。もしわれわれが社会を変えたいなら、自らの活動を抽象的労働へと従属させるのをやめ、何かほかのことを為さなくてはならない。



こういうアナーキーなのが一番ピンとくる。

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メモ 最後の革命? 解題にかえて 松本潤一郎

面白そうなのでこちらからさらに抜粋。

 社会学者と人類学者の相違を,文化人類学者の小田亮は,たとえばホームレスを「調査」するというような場合,人類学者は実際に「住み込み」を行うのに対し,「絶対とは言いませんけれど」と慎重に留保を表明した上で,社会学者は「支援者として「通い」のインタビューに行くという違いが出てくる」というように,説明している。

 訳者は,ここで比喩を通して説明を与えられている「人類学anthropologie」を,小田氏の議論の文脈から切りはなし――したがって以下の議論は訳者の責において為されるものであり,小田氏とは無関係である――,上記のような発言を行う人間が自称する意味における「社会学」をも含めた,広義の「人間(の)学science humaine」に対立する思考として,とらえてみたい。すなわち,産学協同その他の名において人間を,剰余価値を産出する対象または客体と見做してさまざまなかたちで簒奪・消費する,たとえば「安全な場所」から「弱者」に「同情」しているふりをしながらそれらをじぶんの「業績」や「出世」へとカウントしているのは,まさしくこのような「社会学者」をも含めた「人間(の)学」,ときに「人文科学」とも呼ばれる権力ではないだろうか。

 これに対し,小田氏の議論に触発された訳者が少なくともここで提示してみたい「人類学」は,人間を対象=客体に定めて「じぶん」の保身と出世に利用するのではなく,逆に集合的に主体化する実験において,「人類」の新たな経験を創出する,そうした実験を指すだろう。そのかぎりで,小田氏の思惑を裏切ってしまうにせよ,訳者は,バディウ固有の意味での〈マオイスト〉を,この意味での「人類学者」の一形象でありうると,言っておきたい。人間(の)学ではなく,この意味での人類学を! 認識を具体的実践において検証し,翻っては実践から認識を根本的に問いなおし,ふたたび情況を変革するための認識へと鍛えあげつづける螺旋状の活動こそ,人類学の名にふさわしいと,訳者は考えるからである。



私は高卒でフリーターみたいなことしていたのだが、実はある時期「学」の世界を目指そうと大学進学も考えたことがあった。が、経済的な事情もあったが結局「学」の方向へは進まなかった。今思うとここで言われているような「人文科学とも呼ばれる権力」から距離を取り、違う道を歩きたいとぼんやり思っていたのではないかと思う。

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ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』に原子力発電に関する記述があった

のでちょっとメモっておく。

スペクタクルは、それが打ち立てた見事な秩序をいくつかの危険が取り巻いていることを隠さない。海洋汚染と熱帯雨林破壊は地球の酸素補給への脅威となっているし、オゾン層は工業の進歩に抵抗できなくなってきている。また、原子力から発する放射能は不可逆的に蓄積されている。スペクタクルは単に、それらは重要ではないと結論付けるだけである。スペクタクルが議論しようとするものは、ただ、時期と量だけだ。そしてただその点においてのみ、安心させることに成功するのである。スペクタクル以前の時代の人間なら、そんなことができるとは思わなかっただろう。



スペクタクル的民主主義の方法は、全体主義的な独裁(ディクタート)の単なる乱暴なやり方とは逆に、きわめて柔軟性に富んでいる。物事(ビール、牛肉、哲学者)がひそかに変化したときにも、名前をそのまま使うことができる。また、物事がひそかに続いているときに名前を変えることができる。例えば、イギリスでは、ウィンズケールの核廃棄物再処理工場は、1957年の悲惨な火災の後、疑惑を逸らす目的で、それが置かれた街の名からセラフィールドと呼ばせるようになったが、こうした地名の処理も、周辺地域の癌と白血病が原因の死亡率の増加を減らすことはできなかった。当時、イギリス政府は──30年後に民主的にそのことを知らされたのだが──、大衆が原子力に寄せている信頼を揺るがせる性質のものであると当然にも判断したこの大惨事に関する報告を秘密にしておく決定を行ったのである。



あらゆる分野ですでに多くの秘密が必要であることは周知の事実だが、軍事であれ民間であれ核開発には、他のどのような分野よりも大きな秘密が必要とされる。この体制の支配者たちによって選ばれた学者たちの生を──すなわち嘘を──楽にしてやるために、、便利なやり方が考え出された。つまり、尺度を次々と変え、ますます数多くなってゆく観点に従ってその尺度に変化を持たせ、それを洗練させて、互いに換算しにくいそれらの数字のいくつかを、ケースに応じて、うまく手玉に取ることができるようにするのである。その結果、放射能を測定するために、次のような測定単位が準備されることになった。キュリー、ベクレル、レントゲン、ラド、別名、100分の1グレイ、レム、それ以外にも、安易に使われるミリラドや、100レムのことにほかならないシヴェールも忘れてはならない。これを見ると、イギリスの通貨の下位区分のことを思い出す。その複雑さは外国人にはすぐにマスターすることはできなかった。それは、セラフィールドがまだウィンズケールと呼ばれていた時のことだ。



1987年6月、EDF〔フランス電力公社〕施設部副部長、ピエール・バシェは、原子力発電所の安全性についての最新の見解を明らかにした。バルブとフィルターを取り付ければ、「区域」の全体に被害をもたらすような大規模な大惨事や、原子炉の亀裂や爆発はより容易に避けることができるようになる。そうした大惨事は、〔汚染物質を〕閉じ込めようとしすぎることから生じるのである。そんなことをするぐらいなら、むしろ、機械が暴走する兆しが現れるたびに、ゆっくりと圧力を下げ、数キロメートルの範囲内の狭い隣接区域──その範囲は、風向きによって、その都度、偶然に左右されて変化するだろうが──に放出するほうがよい。過去2年間に、ドローム県のカダラシュで行われた秘密のテストでは、「廃棄物──そのほとんどはガス──は原子炉内部の放射能の0・何パーセントか、最悪のケースでも、1パーセントを超えなかった」と、彼は明かしている。この最悪のケースというのは、それゆえ、非常にわずかなものである。なにしろ、1パーセントなのだから以前は、事故の場合を除いて、いかなる危険も論理的にあり得ないと確信されていたのである。最初の数年間の経験によって、この推論は次のように変えられた。事故は常にありうるのだから、なすべきことは、その事故が大惨事の域に達するのを避けることであり、それは簡単である。少しずつ節度ある仕方で汚染させるだけでよい。ポーランド人のようにすぐに酔っ払い始めるよりも、1日に1・4リットルのウォッカを数年間飲むだけにしておく方が、限りなく健康であると感じない者がいるだろうか、というわけである。



「この体制の支配者たちによって選ばれた学者」、、、今日言う所の御用学者ですな。くわえて「ベント」の話題、、、設計者の後藤政志さんの怒りの会見が思い出される。

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社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである

社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである。このことがもたらす経済的な損失は、人々の生存の損失を意味するとは限らないのである。経済を資本の利益に焦点をあわせたり、国家利益に従属させるのではない「経済」というものがありうるのだ。また、いかに「日本経済」なるものが破綻しても、コミュニティの力が人々の生存を維持させつづけることはありうるのである。こうした新たな経済の再設計にチャレンジする強い創造力を持つことが、私たちに問われている。事実、「国民経済」が破綻しても民衆レベルの自立的自治的な経済がむしろ生存の経済として機能する例は決してすくなくない。(破綻したアルゼンチン経済、パレスチナの難民キャンプの経済、第三世界のスラムの経済、先進国の都市下層の経済は、国家と資本から自立していればいるほど自己統治の潜勢力を保持できたといえる)


社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない──原発事故から学ぶべきこと── 小倉利丸』より。

再生エネルギー法案が通るの通らないのとヤキモキしなければならない、分散型・共同体自治(飯田・宮田)の話ではなく、「国民経済」破綻後の民衆レベルの自立的自治的な経済(小倉)の話ほうが自分の関心事だ。緑の谷に風車が回っていたり、屋根の上のソーラーパネルが陽に輝いている、みたいな絵はどうも私には描けない。

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社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない

自然エネルギーの飯田哲也とか、共同体自治を訴える宮台真司の話を最近読んだり聴いたりしていて、まあ面白いんだけど、結局、資本主義の「成長」イデオロギーのなかを動いてるよなあ、と虚しくなるのも確か。それは没落する日本経済に対する経済学者の諸説を聞いていても感じるところだ(リフレ派とか)。ぶっちゃけ私にはラディカルな立場だけがピンとくる。「もっと暗闇を!」に続いて小倉利丸の文章から響いてきたところをメモ↓。

 私が言いたいのは、制御が究極的には不可能な原発技術を目先の利益のために選択し、実際にその利益を得てきた受益者や有権者は、その利益だけを取るべきではなく、リスクに対する責任も負わなければならないということだ。利益は取るが、リスクが現実のものとなったときには「リスクの責任は自分にはない」と逃げることがなぜ許されるか? 現在の財界の基本的な姿勢は「原発による低コストの発電の利益をよこせ、しかしリスクへの責任は東電と国にあり、われわれはその責任をとる必要はないし、リスクに伴うコストは支払わない」というものだ。もちろん財界はこうした本音をそのまま表明することはない。かれらは、たいてい次のように言う。原発による電力の安定的で安価な供給が滞れば、エネルギーコストの増加や生産活動に支障をきたし、国際競争力を失い、日本経済の成長に支障をきたす。経済成長を阻害することになれば、雇用状況は悪化し、税収は減る。原発を動かさなければ日本はもっと貧乏になるし、東日本震災や原発事故の復旧に必要な財源も確保できなくなる、それでもいいのか? という恫喝である。私たちの答えは「それでもいい」でなければならない。しかし、こうした財界の愛国心に訴えるかのような恫喝は、現実の資本の行動と一致していない。増税や労働コストの上昇、環境規制の強化などがあれば、かれらはさっさと海外に移転するし、国内の原発建設が困難になれば輸出で稼ぐことをためらわない。このような「経済」の道理に私たちは付き合うべきではないのだ。有権者として都市の「受益者」としてとるべき責任とは、原発を廃炉にするための政治選択と生存を犠牲にする経済への断固とした拒否だ。



 社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである。このことがもたらす経済的な損失は、人々の生存の損失を意味するとは限らないのである。経済を資本の利益に焦点をあわせたり、国家利益に従属させるのではない「経済」というものがありうるのだ。また、いかに「日本経済」なるものが破綻しても、コミュニティの力が人々の生存を維持させつづけることはありうるのである。こうした新たな経済の再設計にチャレンジする強い創造力を持つことが、私たちに問われている。事実、「国民経済」が破綻しても民衆レベルの自立的自治的な経済がむしろ生存の経済として機能する例は決してすくなくない。(破綻したアルゼンチン経済、パレスチナの難民キャンプの経済、第三世界のスラムの経済、先進国の都市下層の経済は、国家と資本から自立していればいるほど自己統治の潜勢力を保持できたといえる)



社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない──原発事故から学ぶべきこと── 小倉利丸
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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