泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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「アヴァンギャルドの失敗」をめぐる言説の意味するもの 外山紀久子

色々考えさせてくれる興味深い論考だが、

 「忘れてならないのは、すでにダダ以来いかなるときも文学あるいは絵画の創造活動がそれ独自の価値をもたず、それ自体を目的とはしていなかったということである。むしろそれは一時的な手段であり、認識の一様式であり、ひとつの指示標識であり、認識に対するそして生の解明に対する闘いのなかでの人間の表現のひとつであったのだ。問題にしなければならないのはこの生というものである。詩と芸術とはそれを高揚させるための固有の原動力的価値としてしかありえなかったのである」。トリスタン・ツァラが1947年にソルボンヌでおこなった講演の言葉には、自己目的的自律的芸術の廃棄、イデオロギーにおける革命の伝統と詩における革命の伝統との融和、芸術と生との間に設けられた切断の解消といったアヴァンギャルドの基本理念が如実に記されている。
 ビュルガーはこのようなアヴァンギャルドの立場を、19世紀末の〈審美主義〉〈芸術のための芸術〉においてその頂点に達した、ブルジョワ社会に固有の「芸術制度」=芸術の生産・流通・受容のあり方を規定する社会的枠組みそのものの批判として解釈する。アヴァンギャルドは、モダ二ズムの芸術が自律的芸術として自己を定位する──政治を含む生の実践的連関から逃れて美的なものの〈純粋な〉展開を企図する──のを可能にしている社会的条件それ自体を攻撃し、「自律性と「社会的」無帰結性の関係を暴いてみせる」というのである。「歴史的アヴァンギャルドの運動は、自律的芸術にとっての本質的な規定条件を否定する。芸術と生活実践の離反、個人による生産、そしてこの生産から分け隔てられた形での個人による受容を否定するのである。芸術を生の実践に組み入れなければならないという意味において、アヴァンギャルドは自律的芸術の撤廃を企てる」
 しかしながら、このような歴史的アヴァンギャルドの試みは失敗に終わったというのが、ビュルガーのみならず、マテイ・カリネスク、アンドレアス・ユイッセン、トマス・クローらのアヴァンギャルド論に共通の認識となっている。自律的芸術は払底されず、生と芸術の切断は解消されなかった。両者の革新・再組織化の企ては挫折した──というのも、生の側にもまた芸術の側にも、おのおのの境界を維持したままでアヴァンギャルドの企てを制度内に回収する機構が具わっていたのである。



「アヴァンギャルドの失敗」という論点がでてくるのは、そもそもモダニズムという枯れ尾花をマジに受け取ってしまったことに原因がある。熊倉敬聡氏がいみじくも述べているようにそれはあくまで言説であり、しかも巧妙な体制維持の物語なのだ。ビュルガーの言ってることはピンとくるが、どうも彼の述べている「歴史的アヴァンギャルド」の運動も、幽霊のように実体のないモダニズムへの反抗として立てられてしまったため、結局「芸術」のカテゴリー内部の「物語」に絡め取られてしまった。通俗的な理解にあるように、アヴァンギャルドを「芸術と政治の統合」と解してはいけない。トリスタン・ツァラが言ったような「自己目的的自律的芸術の廃棄、イデオロギーにおける革命の伝統と詩における革命の伝統との融和、芸術と生との間に設けられた切断の解消」を目指す運動などではなくて、「芸術」カテゴリー外の運動、資本主義下の疎外の克服=資本主義の外部を形作る実践を「芸術」の制度を転用(流用)しつつ行ったのがアヴァンギャルドなのでであり、これは最近のアナキストがよく言っている予示的政治=革命後の世界を先取りする実践と言い換えてもいい。ここんとこを外山紀久子さんもはずしてしまっている。いや、トリスタン・ツァラのような典型的なアヴァンギャルドでさえ、自分の活動を「芸術」のカテゴリーの中で理解していることが問題なのである。

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セザンヌ byクレメント・グリーンバーグ

「グリーンバーグ批評選集」という本を図書館で借りた。読んだこともないのに「前衛をゾンビに変貌させた吸血鬼」と斬って捨てたグリーンバーグだが、この「セザンヌ」という一文を読むとうっかり僕まで明快なフォーマリッスティックな分析に引きずり込まれてしまいそうになる。が、ここにいるのは血を吸われ青ざめたセザンヌでしかない。こうした吸血鬼たち、、、グリーンバーグにかぎらず、もう一人の抽象表現主義の擁護者ハロルド・ローゼンバーグ、果ては浅田彰なんかが持ち上げていた宮川淳みたいなインチキ評論家野郎どもをバッサバッサと斬り倒す亡霊退治を敢行せねばならない。。。という決意をもって新年の挨拶にかえさせていただきます。

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来るべき<幸福学>へのノート 頑張らなくてもいい社会に向けて 熊倉敬聡

しかし、そのような問題をかかえているにしろ、資本主義的組織から脱資本主義的半組織への多様なグラデーションのひとつとしてその可能性を考えることは無益ではあるまい。 「来るべき<幸福学>へのノート 頑張らなくてもいい社会に向けて 熊倉敬聡



脱力、寛容という感覚には共感するが、正直生ぬるい。「多様なグラデーション」なんてものではなく「断絶」の存在をを僕は感じる。たとえば熊倉氏はジョージ・ソロスの慈善活動を(保留付きで)贈与=「超資本主義」の〈脱資本主義〉的運用などといっている。これはバブル紳士による銀座のクラブでの毎夜の札束のばら撒きを「贈与=富の蕩尽」というバタイユ的概念で語るのとどう違うのだろう(確かに蕩尽ではあるのだろうが)。成功した投機家のこのある種の再分配活動を無意味だという気はないが、それを脱資本主義とか贈与と言ってはいけない。だいぶ昔にも書いたことだが資本主義社会における贈与とは反抗することでなければならないはずだ。

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カリネスクのアヴァンギャルド論より

英米の芸術批評では(グリーンバーグに典型的だが)モダニズムとアヴァンギャルドは同一視されている。

 アヴァンギャルドという用語の旧大陸的な用法に慣れ親しんでいる批評家には、この同一視は驚くべきもの、不可解なものでさえある。フランス、イタリア、スペイン、そして他のヨーロッパ諸国では、アヴァンギャルドは、そのさまざまな、ときに矛盾する主張にもかかわらず、芸術的否定主義──芸術そのものがまず最初に犠牲となる──のもっとも過激な形態と見なされる傾向にあった。モダ二ズムにかんしていえば、異なる言語、異なる作家にとってその特殊な意味がなんであれ、それは、アヴァンギャルドに特徴的な普遍的かつヒステリカルな否定感覚を意味するものではない。モダ二ズムの反伝統主義は、しばしば徴妙に伝統的なのだ。だから、ヨーロッパ人の視点からは、プルースト、ジョイス、カフカ、トーマス・マン、T・S・エリオットあるいはエズラ・パウンドをアヴァンギャルドの代表と考えることが難しいのである。これらの作家と、未来主義、ダダイスム、あるいはシュルレアリスムといった典型的なアヴァンギャルド運動に共通するものは、たとえあるにしてもごく僅かである。そこで、もしわれわれがモダ二ズムの概念を一貫して機能させようとするならば(そして前述の作家たちにそれを当てはめようとするならば)、モダ二ズムとアヴァンギャルド(新旧双方の)を区別しなければならない。「みずからに抵抗する伝統」として定義されたモダンがアヴァンギャルドを可能にしたことは事実である。しかし、アヴァンギャルドの否定的な過激主義と体系的な反美学主義が、偉大なモダ二ストたちによって試みられた世界の芸術的再構築に対する余地を残さないことも、同様に事実なのである。
 モダ二ズムとアヴァンギャルドとの奇妙な関係(相互依存であり相互排除でもある関係)をさらによく理解するには、アヴァンギャルドを、なによりも、モダンじたいの意図的、自意識的なパロディーと考えるのが妥当であろう。パロディーの地位はひとが思う以上に曖昧である。表面的には、パロディーは、しばしば強調を通じて、その霊感の元である原典の隠れた欠点や矛盾を揶揄するものである。しかし、さらに深いレヴェルでは、パロディーの実践者は、じぶんの揶揄する作品を密かに賞賛することもありうる。原著者に対するいくばくかの賞賛は、パロディーの実践者には必須でさえある。まったく意味も価値もないと信じるものを、いったいだれがパロディーの対象としよう。さらに、質の高いパロディーは、原典に対する批評とともに、原典の字句と精神に対するある程度の忠実さ、ある程度の類似性を暗示しなければならない。理想的には、パロディーは、パロディーに見えると同時に、原典じたいと取り違えられる可能性をももっていなければならない。モダンのパロディーとして見ると、アヴァンギャルドはこれらすべての曖昧さを例証する。それは、一方で(ほとんどのじっさいのパロディーがそうであるように)しばしば粗雑で未熟だが、ときとしてそのモデルと取り違えられかねないほどそれに接近する。


アヴァンギャルドの「パロディー=転用、流用」的な性格を押さえておくことが肝心。ただ大陸的なモダニズムとアヴァンギャルドの峻別もどこか曖昧、、、「否定的な過激主義と体系的な反美学主義」すなわち「反芸術」とかビュルガー流の「生活実践」という観念だけでは、モダニズムとアヴァンギャルドのどこが違うのかはっきりしない。資本主義近代下の疎外の克服=実験(試みとしての生)の手段としてのパロディ(あるいはブリコラージュ)という視点を落としてはいけない。

例えばバタイユはマネの絵画をそのパロディ性において、すなわちマネをアヴァンギャルドとして分析している(一方フーコーはマネをモダニストとして分析している。)。セザンヌの絵画もこれまで一般的になされてきたようにモダニズム絵画として解釈するのではなく、伝統的な絵画の「パロディー=転用、流用」として、またセザンヌの生を疎外に抗する実験として理解しなければならない。

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モダンの5つの顔

マテイ・カリネスク著 を読んでいる。こういうのが読みたかった。が、半分も読まないうちに図書館に返すことになるんだろうな。
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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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