泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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卓越の文化と生きられる文化についてのメモ

「カー二ヴァルには演技者と観客の区別はない。カー二ヴァルには、たとえ未発達の形式においてですらフットライトなるものは存在しない。フットライトがあれば、カー二ヴァルはぶちこわしになろう(逆に、フットライトをなくせば、演劇的見世物はぶちこわしになろう)。カー二ヴァルは観るものではなく、そのなかで生きるものであって、すべてのひとが生きている。というのも、 カー二ヴァルはその理念からして、全民衆的なものだからである。カー二ヴァルがおこなわれているあいだは、誰にとってもカー二ヴァル以外の生活は存在しない。」



、、、というバフチンの言葉があるのだが、この演者と観客を二分する「フットライト」の比喩で問題にしているのは演劇論ではない。そうではなくて、一口に文化と言っても、このフットライトによる分離を前提とした文化(公式文化=芸術)と、すべてのひとによって生きられる文化(非公式文化=カーニヴァル)という2つの文化形態があることを、バフチンは図式的に示しているのである。
 
 この2つの文化形態という図式はすでに、ニーチェの『悲劇の誕生』における、「アポロン的文化とディオニュソス的文化」という、少々混乱した対立図式の中に現れていた。また時代は下るが、演者( acter )と観客( spectator )への分離を批判し、自分たちの活動が「生きる者( livers )」たらんとするものであることを主張するシチュアシオニストの「スペクタクルと状況の構築」という対立概念の中にも同様の図式を観ることができる。

つまり、

アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクル

という文化形態(これを私は「卓越(垂直性)の文化」と呼ぶ)と、

ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築

という文化形態(「生きられる(水平性の)文化」と呼ぼう)の二系列を図式的に区別しようというわけである。

まずは、この2つの文化形態がいかに異質なものであるかを説明しておきたい。

1,伝統的には、アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルは、支配階級(王侯貴族、宗教的権力)に特有の文化を、ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築は、民衆(非支配階級)の文化を説明する図式として通用する。

2,アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルは、「個人」を基本的な要素として成り立つ文化であり、逆にディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築は、個の境界の消滅そのもののことである。

3,「個人」を基本的な要素として成り立つアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルは、他者に対して「卓越、優越」すること(他人より上でありたい=オレってすげえ!)が価値となっている(垂直性)。「才能」が問題とされ、最も価値の高い卓越した個人は「天才」と呼ばれる。逆にディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築にあるのは「笑い」や「遊び」や「陶酔」であり、卓越への努力や配慮、「天才」そのものが存在しない(水平性)。

4,「個人」を基本的な要素として成り立つアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルはまた、演者と観客という二項への分離を前提とした文化である。ある個人が自分を演者(能動的な創造者)であると他者に認めさせることは、他者を(受動的な)観客と見做すことでもある(演者の観客に対する優越)。クリエイターとオーディエンスの非対称性と上下関係がこの文化の基礎である。逆にディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築においては、そうしたフットライトによる、演者と観客の分離はなく、万人が根源的な意味で表現者であり創造者である。

5,「卓越、優越」することが価値となっているアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルには、ある個人が卓越しているかどうかをジャッジする「他者=審級」の存在を前提とする。自分で自分の卓越を主張したとしても、それは独りよがりでしかない。その審級に認められなければ、その個人(作品)は非文化(無価値、野蛮)とみなされる。そうした「審級」は、一般に現行の支配的権力をバックボーンにした権威であり、その承認を受けるということは、権力(秩序)への隷属(疎外)を意味する。逆にディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築とは、支配的権力の紡ぎ出す秩序の解体、無効化、転覆を生きることである。

6,要するに、アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルとは、権力の、権力による、権力のための文化であり、ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築は、権力(疎外)からの自律のアナーキーな時空を意味するのである。

7,アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルは、権力の威光と永続を示す目的のために、豪華絢爛さ、文化的洗練への配慮、(多くの芸術家や職人を動員できることで可能になる)作品の巨大さ、(石や金属などの堅牢な支持体による)作品の永続性、といった文化的特徴を持つ(作品=コンテンツ中心主義)。一方、ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築は、将来への配慮のない生の燃焼であり、作品のような文化的残存物を残すことに関心がない。

8,結果的に過去に遡るほど私たちの前に残され可視的になている文化はアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルだけになり、ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築の広大で無形の遺産は目には見えない。

ところでニーチェはいみじくも「アポロンはディオニュソスなくしては生きえない」と言っている。つまり実は、文化の根源は目には見えない虚の厚みとでも言うべきディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)=状況の構築にこそあるのであって、豪華絢爛にして洗練され、何千年という時間を生き延びてきたアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルも、ディオニュソス的文化の支えなしには空虚なテクノロジーでしかない、ということである。ギリシャ悲劇のみならず、その後のヨーロッパ内外のアポロン的文化=公式文化(芸術)も、何らかの形でディオニュソス的なものが忍び込んでいるからこそ、生気あるものとなっているのだ。

というわけでディオニュソスこそ真の文化の神なのであるが、ニーチェの『悲劇の誕生』には、ディオニュソスを殺害するソクラテスという第3のプレーヤーが登場する。これは一体何者なのか。

ニーチェの描くソクラテスは啓蒙の象徴であり、その合理的、功利的、道具的な理性の手つきは非合理的な起源を持ったディオニュソス的な精神(=文化)をナンセンスなものとして解体してゆく。ギリシャ悲劇はその根源にあったディオニュソス精神がソクラテス的な理性主義によって殺害されることによって形式化され滅んでいった。

しかしこのソクラテス=啓蒙の精神が全面化しているのは何より私たちの近代である。啓蒙の精神は富の増殖と結びついて、いわゆる資本主義の精神となってブルジョワ社会を支配している。私たちの近代ブルジョワ社会とは、ソクラテス=啓蒙­­=資本主義の精神が、ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)を絶えず封じ込めようとしている社会である。実際にはディオニュソス的なものは放射性物質のごとくアンコントローラブルであり、常に隙間を見つけては漏出、噴出を繰り返しているのだが。

ソクラテス=啓蒙­­=資本主義の精神の拡大と浸透は、伝統的民衆文化(ディオニュソス的文化=非公式文化)を衰弱死させた。一方アポロン的文化=公式文化(芸術)は、ソクラテス=啓蒙­­=資本主義の精神と同化し乗っ取られることになった。アポロン的文化=公式文化(芸術)は、古代中世を通して権力に使える文化ではあったが、権力は文化そのものの敵ではなかった。ブルジョワ権力に至って史上初めて、アポロン的文化=公式文化(芸術)は文化の殺害者の手先になるというパラドキシカルな役割を背負ってしまったのだ。ディオニュソスは糧を失い衰弱死したが、アポロンは自殺を強要させられることになったのだ。実際にはアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルは、私たちを疎外の中に眠らせておくためのテクノロジーへと純化しつつあるといっていいだろう。

 アヴァンギャルド(反芸術)の時代が19世紀後半から20世紀前半にかけてあったわけだが、あれこそまさに、文化の殺害者の手先とかしたアポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルの場に、知的階級の中の反体制的な精神(ディオニュソス的なもの)たちが侵入して乗っ取ったものである。つまりギリシャのポリス文化に野蛮なディオニュソス祭が侵入しギリシャ悲劇が誕生したように、この非常に痛快で実り多き100年をディオニュソス的なものが支えたのである。

 しかし今度は、モダニズム(モデルネ)系言説が現れて、本来ディオニュソス的文化=非公式文化(カーニヴァル)であったはずのアヴァンギャルド(反芸術)文化を、まるで文化の殺戮者の手先となったアポロン的文化=公式文化(芸術)の歴史の中から弁証法的に発展してきたかのような簒奪行為を働き、自分のお手柄にしてしまった、、、奪い返されてしまったといったほうが正確だろうか。

 シチュアシオニストはこの事態をよく見抜いていたので、アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルの場から撤退して、生活全体を疎外からの自律の試みの地平にしようとした(状況の構築)。それは奇しくも(いや当然ながら)バフチン描くところのカーニヴァルのような広場の文化に回帰している。あまり気づいている人はいないようだが、20世紀後半以降の文化のメインストリームは、アポロン的文化=公式文化(芸術)=スペクタクルのいわゆるコンテンツ文化よりも、生活全体が文化である「生きられる文化」の形を取って動き出している。シチュアシオニストはその先駆けである。

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反芸術研究室 ポール・セザンヌと印象派 その5

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この曲聴いてたら、下のガキが「これ学校で給食の時間にかかってる」と、たどたどしい日本語で言った。



オタクな学校の先生のセレクションなのか?
児童たちが変な白昼夢の世界に入り込まねばよいが、、、

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反芸術研究室 ポール・セザンヌと印象派 その4

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反芸術研究室 ポール・セザンヌと印象派 その3


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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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