泥沼通信

祭りの戦士 @ กลับมาจากกรุงเทพฯ

 

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引きこもりだった『セザンヌ』ってやばいぞ!!山田玲司のヤングサンデー#16から



セザンヌ絵画の解釈はともかく、こーゆーはっちゃけたのを漫画でやりたいんだ。

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情けないことに「天才」という言葉のいかがわしさに気づいてからもう30年も経つというのに

、、、例えば他人に不当な扱いを受けたときなど、未だに「オレは天才なんだぞ、、、覚えとけよ!」と心でつぶやき自分を慰めたりすることがある。
 単純なことで、一人として同じ人間はいない以上、人の為すこと、為せることには当然違いがあり、差があるわけだが、「天才(才能)」という言葉は、その違いに優劣をつけているのである。つまり「天才」という言葉は、より価値のある人と価値のない人の序列を前提とした言葉なのだ。文化的な天才に限って言えば、、、芸術家(アーティスト)などの文化的生産者は天才に近づけば近づくほど、より卓越し、より価値のある文化的生産を為しうるし、才能がない人間は天才が創り出した文化的生産物を礼拝したり消費したりするだけの受動的な観客へと、文化的に疎外されるのである。こうした「天才」と「天才」によって生み出されたものにこそ価値があるとする文化のあり方を、私は「卓越の文化」と呼んでいる。
 「卓越の文化」は、その文化が「芸術」(高級文化)であろうと、「大衆文化」(文化産業)であろうと、あいつよりオレのほうが上手い、とか、あの人の作品のほうがこの人のより新しいとか洗練されている、深いなどなど。また、商業的な文化でも同様にどちらのほうが人気があり、売れているなどと常にその優劣の比較が問題にされ、より優れたものに文化的価値を置こうとするのである。
 今日私たちが思い浮かべる「文化」なるものは、ほとんどこの「卓越の文化」なのではないだろうか。若い人がクリエイター(文化的職業)なんてものになろうと考えたとき、まずぶつかるのが「オレには才能があるのだろうか」問題である。天才的な才能がなければ食えないだけでなく、その仕事に価値もないというのである。また友人やライバルと優劣を競い、嫉妬や優越感に翻弄され、すでに成功を収めたクリエイターと自分を見比べては絶望する。天賦の才に恵まれたものだけが栄光を掴み、才能ないオレはやはり天才の仕事を礼拝し消費する観客の側に回るしかないのか、、、さらに成功したクリエイターはといえば、自分の地位が新参者に奪われるのではないか、自分の仕事の価値が落ちてゆくのではないかと戦々恐々と闘い続けなければならない。遠い昔から続く文化シーンの本質とはこうした承認欲求の憂鬱な競争の場だったのだろうか。思うに文化と天才(才能)がセットで語られる背景には、文化とはすべからく「卓越の文化」であるという前提が自明なものになっているからに他ならない。
 ペーター・ビュルガーはアヴァンギャルドの中に、「天才」の概念と、文化的生産者(演者)と受容者(観客)の区別の否定を見出している。

 まず従来のブルジョワ芸術〔市民芸術〕の芸術作品の生産に対して、アヴァン ギャルドの「生産」は何か新しいのだろうか。自律的なブルジョワ芸術の生産は個人的なものである。生産の担い手である芸術家は個人として生産し、芸術家の「個性」は「ラディカルに特殊なもの」と把握される。つまり「天才」の概念である。 これに対してアヴァンギャルドは「個人の生産」というカテゴリー自体を否定する。 アヴァンギャルドの作品は天才をまったく期待せず、そもそも作品制作に才能を必要としないというメッセージを送っている。たとえば、デュシャンの有名な「泉」は、大量生産品である小使器に署名(偽名)をし、それを美術展に出品することによって、個人的生産ということを無効化する意図をもっていた。ビュルガーによれ ば、デュシャンの行為は作品の質ではなく署名の方が重きをなす芸術市場を挑発したことにとどまらない。個人を芸術作品の創造者であると考える原理が否定されているのである。
 また、アヴァンギャルドは作品の個人的な受容も否定する。ダダのイヴェントはイヴェントにおいて挑発され憤激した観衆がイヴェントの一部に巻き込まれることを 意図している。そもそもアヴァンギャルドは生産者と受容者の区別に異議を唱える。 これが明確に表れているのが、ダダ的な詩を書くためのツァラの教示や自動筆記によるテクストの構成法に関するアンドレ・ブルトンの手引きである。彼らの処方にしたがって人々が書き、実際に生産者になることをアヴァンギャルドは望んでいた。
モダニズムからアヴァンギャルドへ(ペーター・ビュルガー)』 田辺秋守


 これはつまり「卓越の文化」の否定であり、ビュルガーはそれとは別の文化形態である「生きられる文化」のあり方を指し示しているのだ。それはダダ、シュルレアリスムやロシア・アヴァンギャルドなどのプログラムから抽出された「芸術と生活実践が一体となり、実践が美的であり、芸術が実践的である」という彼の言葉通り、万人が「生きること」が即「文化」であるようなあり方である。
 「生きられる文化」がいかなるものなのかのイメージを掴むためには、バフチンのカーニヴァル論を参照するべきだろう。つまりデュシャンの小便器の面白さはカーニヴァルの面白さなのだ。カーニヴァルにおける民衆の興奮(生きる歓び)に「天才」は無縁である。誰が誰より上であるとか下であるとかいう序列(秩序)や序列を測る物差しが転倒し無効になっている状態がカーニヴァルの時空である。高貴なものが引きずり降ろされ、卑しいもの、淫らなものが持ち上げら、人々を縛っていた秩序は徹底的に「笑い」のめされる。こうした禁止(秩序)からの解放が反芸術(アヴァンギャルド)の本質である。反芸術活動はアートワールドをカーニヴァル化しようとしたのである。
 クリエイターに憧れ、クリエイターになろうと考えるとき、おそらく人はシステムが押し付けてきている文化的疎外から逃れようとしているのだ。観客ではなく演者の側に回る(天才へ上昇する)ことで自律した生を取り戻そうと思っているのだ。が、それはやはりシステムへの隷属なのであって、自律のためにほんとうに必要なことは秩序内部での上昇ではなく、「卓越の文化」と「卓越の文化」というスペクタクルによって自らを維持、再生産し続ける現行体制(秩序)とその疎外を否定すること、現行秩序のゲームの土俵から降りること、すなわち「生きられる文化(カーニヴァルの生)」への移行でなければならない。
 ダダやシュルレアリスムもそうした試みであったはずなのだが、敵もさるもので、小便器という既製品を美術展に展示することで個人を芸術作品の創造者であると考える原理を否定したはずのデュシャンを、今度はそうしたアクションのコンセプトを考え出した「天才」として祭り上げ、「生きられる文化」の実践であったものを「卓越の文化」のに引き戻してしまい、いつの間にか私たちの前には、天才デュシャンや天才ピカソという卓越した個人がいるだけである。ダダもシュルレアリスムもいまや「天才」たちの技にされてしまったのだ。つまり、ゲームを降りた人の実践をゲームのルールに従って行われたものとして解釈し直すこと、これが現行体制の文化的権威であるアートワールドの主流言説であるモダニズム系言説の行っている簒奪行為である。
 しかし「生きられる文化」は美術館とか劇場だけに限られるものではない。カーニヴァル化すべきは路上であり、生活全体であるべきだろう。自分たちの活動は「芸術=卓越の文化」ではないと主張していたシチュアシオニストの実践とは何であったのか。5月革命以来繰り返される路上占拠や小さな自律的空間の創造とは何なのか。それは反芸術活動と同じ「生きられる文化(カーニヴァルの生)」の実践なのではないだろうか。

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芸術の終焉のあと 現代芸術と歴史の境界

というダントーの本が出たらしい。読みたい(批判的に)が金と時間がない。

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ニーチェの『悲劇の誕生』における、アポロン的なものと、ディオニュソス的なものという概念は、実はちょっと混乱した概念である。

、、、どちらもショーペンハウアーの表象と意志の区別から引き出された概念であることは間違いないが、2つの問題系がまぜこぜになっていてそれが噛み合っていないのである。
 ひとつは芸術論であって、ショーペンハウアーの、表象の模倣である「美術(視覚的な造形芸術)」と、意志の直接の模倣である「音楽」の区別を、それぞれアポロン的芸術、ディオニュソス的芸術と言い換えたものである。これは「夢と陶酔」とも表現され、ギリシャ悲劇やワーグナーの楽劇の解釈に使われ、ご存知のように音楽の精神(ディオニュソス的なもの)がそれらの根源を形作っているというのがニーチェの主張である。
 だがもうひとつ、文化人類学的というか構造論的とでもいうべき問題意識でもアポロンとディオニュソスの比喩が使われている。こちらは一言で言うと「秩序と反秩序(混沌)」という対立のメタファーになっている。ショーペンハウアーによると「個体化の原理」によって物自体(意志)が表象化することで、個としての人間存在を含めたこの世界が形作られ、死すべき運命にある有限な人間の苦悩や悲哀もまた生まれるとされる。しかし厭世的なショーペンハウアーと違って、ニーチェが強調するのは祝祭の陶酔においてそうした個我の限界が破られて、人間が永遠の世界意志と一体化する歓喜の瞬間である。踊り歌う民衆は、その生そのものが芸術作品だというのだ。つまりここでニーチェは、ショーペンハウアーの「表象と意志」の教説を「個を基盤とした秩序ある日常性」と「個を脱した陶酔的な非日常性」との対立に読み替えているのである。実際にニーチェの記述を読んでみると、アポロンとディオニュソスというメタファーが、「日常と非日常」「文化と野蛮」という構造的概念になっているのがよくわかると思う。ギリシャ悲劇のニーチェ流の分析も、「秩序ある」アテナイの(アポロン的な)演劇文化の中に、外部の民族の「野蛮な」祭りの習慣(ディオニュソス的陶酔の文化)が侵入し、アッティカ悲劇が受胎したという構図になっている。
 この「夢と陶酔(造形芸術と音楽)」という美学的な問題系と、「秩序と反秩序(混沌)」という構造論的問題系は、アポロンとディオニュソスという一対の概念でまとめることはできない。この点が『悲劇の誕生』という本に混乱をもたらしているのだ。視覚的表象的な芸術である「美術」が、スタティックで秩序ある文化で、一方の音楽は反秩序的でエモーショナルなものだということには必ずしもならない。造形芸術が反秩序的なこともありうるし、ニーチェ自身もスタティックなアポロン的音楽について本の中で語っている。ギリシャ悲劇もワーグナーの楽劇も、演劇や美術という視覚的要素と音楽の二面性で成り立った総合芸術であるために「夢と陶酔」という美学的対立概念が活用されているのだろうが、重要なのはむしろ「秩序と反秩序(混沌)」という構造的対立の概念のほうだろう。つまり一口に文化と言っても、秩序に関わる文化(アポロン的文化)と、秩序からの解放に関わる文化(ディオニュソス的文化)2つの形態があるということ、そして後者のディオニュソス的文化、秩序からの解放(反秩序)こそが文化の根源をなしている、ということこそ本来ニーチェが「アポロンとディオニュソス」という一対の概念で言うべきことだったと私は思うのである。
 秩序は、日常性、禁止、権力などと関わっており、アポロン的な文化は現行の秩序を肯定し賛美するスペクタクルとしての性格を持っている。一方のディオニュソス的文化の反秩序的なあり方は、カーニヴァル、革命など体制秩序の反転や転覆と関わり、日常性や禁止からの解放という側面を持っている。『悲劇の誕生』の影響を受けていたバフチンは後に、アポロンとディオニュソスの対立を、「公式文化」と「非公式文化」の対立に置き換えるだろう。ロシア革命の時代を生き、カーニヴァル論を展開したバフチンにおいては「夢と陶酔」の美学的問題系はすでに消滅している。
 が、『悲劇の誕生』でニーチェはいみじくも「ディオニュソスなしにはアポロンは何者でもない」と、文化はあくまでディオニュソス的な反秩序のエモーションを根源としているということ、また、アテナイの支配階級の文化であったギリシャ悲劇がまさにそうであったように、権力の文化である「芸術」が文化の名に値するものであるためには、ディオニュソス的なエモーションが何らかの形で「芸術」というアポロンの中に侵入していなければならないことを明かしている。
 さらに大事なことは、文化そのものを骨抜きにし死に追いやるものとしてニーチェは、ソクラテス(楽天的理性主義=啓蒙)というもう一人のプレーヤーの名を挙げていることだ。啓蒙と手を取り合った資本主義の精神が、芸術と祝祭(アポロンとディオニュソス)双方を滅ぼしてしまったのを、私たちは現在目のあたりにしている。『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇にかこつけて、実はブルジョワ社会における文化の運命について語っているのであり、その意味では21世紀の現在においても古びていないテクストであると言っていいだろう。また、文化の再生をワーグナーの楽劇というスペクタクルに求めてしまったことについては、後に二ーチェ自身によって自己批判されることになる。

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19世紀後半から20世紀前半にかけての100年間は、、、

、、、アートワールドにとって劇的な転換期であった。一言で言えば、アートワールドの主流言説(何が芸術に値するかを決定する言説)が、ルネサンスから綿々と続いてきた古典主義的(アカデミック)なそれから、モダニズムへと急速に移り変わった100年であったのだ。
 「芸術」はヨーロッパの支配階級の高級文化として、被支配階級(民衆)の生活文化への(規模や洗練による)優越によって自らを成り立たせていた。市民革命、産業革命を経てブルジョワの時代になり、ブルジョワ体制の自己賛美、自己肯定的なスペクタクルへと変化しても「芸術」のそうした身振りはそのまま引き継がれた。近代化とともに、資本主義の精神が民衆の世界に浸透し、民衆文化が衰退すると、植民地主義によってヨーロッパにもたらされたオリエントやプリミティヴな文化への優越が、「芸術」の指標のひとつに加わった。「芸術」がこのように何かに対する優越によって成り立つ「卓越の文化」である以上、優越の基準となる言説(価値の物差し)と、非芸術(野蛮な文化)が、「芸術」と表裏一体となって存在するのである。
 しかし19世紀も半ばになるとアカデミックな規範によって生産された「美」の形式化が誰の目にも明らかになってきた。そもそも吝嗇なブルジョワ精神は文化の破壊者である、というかブルジョワ精神は、文化の根源である過剰、浪費といった性格を否定することによって立ち上がるものだけに、「芸術」という文化の自壊は論理的な結末であった、というべきであろう。
 ブルジョワ芸術の形式化、いや、ブルジョワ社会の疎外(文化的不毛)に反発した一部の芸術家(後にアヴァンギャルドと呼ばれるようになる反芸術家たち)は、むしろヨーロッパが優越感を抱き、見下していたはずのオリエントや未開文化などにシンパシーを覚え、インスピレーションを受けつつ、アカデミックな規範を逸脱する作品を発表するようになる。アートワールドは当初、この反芸術というスキャンダラスな事態を嘲笑し、糾弾や無視をきめこんだりして、文字通り「野蛮」として「芸術」の外部に放逐した(フランス芸術アカデミーは当時、印象派の絵画をフランスの恥だとすら言っていたのだ)。
 が、一部の先進的な批評家や画商が、形式化し老衰したアカデミックな芸術より野蛮な「反芸術」に面白さを見出し始め、19世紀末には印象派、後期印象派が商業的にも成功を収め始めるに至って、アートワールド全体が大きく動揺し、芸術外へと放逐した「反芸術」を内部に取り込むためにその言説(規範)を再編成することになる。その結果主流言説に躍り出たのが「モダニズム」系の批評言説である。このとき「野蛮」扱いされた反芸術家たちは一転、「前衛(アヴァンギャルド)」というヒーローに変身させられた(狂人扱いされたまま死んでいったゴッホは、この主流言説の転回とともに前衛芸術家として名誉回復されてゆく)。
 また、この過程で同時に起こったことは、ヨーロッパ内外におけるかつての民衆文化(生きられる文化)の産物、痕跡が、モダニズムのフォーマリステックな解釈によって、それが生産された(民衆によって使用された)文脈を無視して、反芸術の産物と同様に「芸術」というブルジョワ社会の制度(スペクタクル装置)内部に取り込まれたことである。つまり、ヨーロッパ内外の人類学、民俗学的な野蛮で珍奇な収集物は、この再編成とともに芸術品(高級文化)へと「格上げ」されるのである。
 モダニズム言説(何が芸術に値するかを決定する言説)の特徴は、アカデミズムの古典主義のように形式的な約束事を重視したスタティックな規範ではなく、「伝統の否定=新しさ」というダイナミックな規範であるところにある。常に「芸術」とは何であるかを自問自答し検証するメタ的な性格を持っている。この言説によって死に体と化していた「芸術」は、フレッシュでグローバルなスペクタクルへと刷新されれることになる。が、注意しなければならないのは、モダニズム言説は、ブルジョワ社会の疎外からの自律を目指していた反芸術の実践(芸術でないもの=生きられる文化)を、「芸術」の近代的新展開として解釈しなおす(横領する)ことで、スペクタクルの刷新を成し遂げたことである。モダニズムというアートワールドの主流言説は、生きられる文化からの血塗られた簒奪(解釈の暴力)を起源としているというわけである。
 アカデミズムの古典主義というスタティックな「芸術」の規範は、民衆文化を「芸術」の「外部」へ排除することで自らを価値化(優越化)していたが、モダニズムでは、「後衛(アリエルギャルド)すなわち古臭いもの=古典、まがいもの=複製・商業主義芸術」に対する「前衛(アヴァンギャルド)」であることが「芸術」のメルクマールとされるようになった。つまり19世紀までの「内/外」の線引によって成り立っていたアカデミックな芸術観は、20世紀になるとモダニズムによる「前/後」の線引に取って代わられるのである。「前衛(アヴァンギャルド)」こそが「芸術」に値するという言説がアートワールドのメインストリームを形成する時代が訪れたのである。
 またこの時期、近代化によって衰退の一途をだどっていた伝統的な民衆文化(未開文化も含めて)は、ほぼ完全に見世物化し、商業的な大衆文化へと横滑りし、かつての「芸術外」の文化(生きられる文化)の領域は、「後衛」 の中に押しやられていった。さらに、モダニズムによる「前/後」の線引き(前衛と後衛の対立)が、文化シーンとして前景化されるとともに、「内/外」の線引によって野蛮人して厳しく「芸術」から排除され、それだけにアートワールドにとって不気味で混沌とした(それだけに生命力に満ちた)非芸術の領域、すなわち「生きられる(ディオニュソス的)文化」の存在感が不可視化し、私たちの眼前にあるのは「卓越の文化(スペクタクル)」だけになってしまった。 
 グリーンバーグやアドルノのようなモダニストは、「後衛(キッチュ、文化産業)」を厳しく批判することで、「前衛(アヴァンギャルド)」を称揚したわけだが、気をつけなければならないのはどちらも「卓越の文化」であり、権力の視線とヒエラルキーを前提とし、その秩序を肯定する文化、すなわちスペクタクルであるということである。つまり「前衛/後衛」の対立とは、実は高級スペクタクルと低級スペクタクルの対立に過ぎないのである。この偽の対立の茶番劇によって、体制秩序の外部を垣間見せていた生きられる文化の(亀裂や裂傷としての)ありかが撹乱され、すっかりわかりにくくなっているのだ。
 20世紀も後半にはいると、後衛に対する前衛の自己批判的純粋性を要求するモダニズム理論のストイックさとその行き詰まりに対する反発が、ネオダダイズムやポップアートというかたちで噴出する。とりわけポップアートは、モダニズムではご法度である大衆文化のイメージを大胆に芸術作品の中に導入し、アートワールド内に議論を巻き起こした。当然、アドルノやグリーンバーグ、ローゼンバーグのようなモダニストは、こうした新しいムーブメントに批判的であり、一様に苦い顔をしたものだが、このような前衛と後衛の境界の消滅は21世紀にかけて現在までとどまることなく進行してゆく。日本でも(高級な)芸術に(低俗な)オタク文化のイメージを導入した村上隆や会田誠が話題になっているが、要するにこれは一種のポップアートなのである。このような前衛と後衛の融合状況を、芸術や建築の領域では「ポストモダン」状況と呼ぶのであるが、前衛も後衛も、そもそもが同じ卓越の文化(スペクタクル)である以上、その境界線が溶融してゆくことにはなんの驚きもない。むしろポストモダン現象というのは、モダニズムの「前/後」の線引き(前衛と後衛の対立)による茶番劇に、さらに上塗りされた新たな茶番である。当然ながらポストモダンはモダニズムの乗り越えなどではなく、横領によって立ち上がったモダニズムを強化する役を果たすものである。モダニズムの茶番が、ポストモダン的反抗によって複雑に錯綜すればするほど、「卓越の文化」の外部の「生きられる文化」のあり方がますます不可視になってゆくというわけで、それはモダニズム芸術というブルジョワ社会のスペクタクルが見事に作動して、疎外の維持に一役買っていることを意味しているのである。
 見えにくくなっている「生きられる文化」は、むしろ資本主義の疎外に抗するアナーキーな生活的な実践の中にこそきらめいている。何かの歌ではないが、芸術やポピュラーカルチャーのなどの「卓越の文化」の領域を血眼になって探すのをやめたときにこそ、不可視であった文化は私たちのすぐそばにあっけなく見つかって手元に帰ってくるのである。

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プロフィール

荒井賢 (Ken Arai)

 住所 埼玉県越谷市
 生年月日 1964年2月15日
 職業 アニメーション背景制作
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